トルコ、ブルガニア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、ジョージア(グルジア)の6カ国に囲まれた黒海はヨーロッパ・中東の歴史に重要な役割を果たしてきたが、地中海に比べて影が薄い印象は否めない。私もこれまでイスタンブールからボスポラス海峡を眺めたことがあるだけだったが、今回、ワールドカップ観戦でロシアを旅行する機会に黒海沿岸の保養地ソチを訪れた。

 2014年冬季オリンピックの開催地でもあるこのリゾート地は、コーカサス山脈の北側に位置し、ロシア、アブハジア、グルジアなどのさまざまな民族が暮らす交易拠点だった。大きく発展したのはソ連時代で、スターリンをはじめとする指導者がここに別荘を構え、「ソビエトのリビエラ」と呼ばれた。

ソチがロシアを代表するリゾート地になった理由

 地図を見れば明らかなようにロシアは典型的な内陸国で、ほとんどの海岸は北極海に近い寒帯に位置し冬期は航行できない。前回述べたように、バルト海に面した不凍港カリーニングラード(ケーニヒスベルク)がバルチック艦隊の軍事拠点になったのはそのためだ。

[参考記事]
●ロシアW杯会場となったカリーニングラードが辿った900年におよぶ数奇な歴史

 広大な国土をもつロシアには、冬期にも利用できる海はあとふたつしかない。ひとつはウラジオストックのある日本海、もうひとつがボスポラス海峡とダーダネルス海峡で地中海とつながる黒海だ。ロシア帝国が勃興した17世紀以降、黒海沿岸の港とふたつの海峡の支配権をめぐる列強の争いが激化したのはこのためだ。

 不凍港は軍事的に重要なだけではない。長い冬に港が凍ってしまっては、交易基地としても使えない。それと同時に、夏でも海水が冷たい北の海はリゾートにも適さない。

 ロシアや北欧・東欧など、冬の長い国では、夏のあいだに太陽に肌をさらさないと冬に病気になると信じられている。こうして短い夏にみなが日光浴に精を出すのだが、それに適したビーチはじつはものすごく少ない。

 ソチの南にはスフミやガグラといったリゾート地があるのだが、ここはソ連解体後にジョージア領となり、その後、アブハジア人の独立運動が興って「アブハジア共和国」の建国が宣言されたが、ジョージアはこれを認めず係争状態にある。

 もうひとつの代表的な黒海リゾートはクリミア半島のセバストポリとヤルタだが、こちらはソ連解体後にウクライナ領となり、2014年の住民投票でロシアへの編入が賛成多数となったものの、ウクライナはこの結果を認めておらずやはり係争状態にある。

 それに対してソチは冷戦終焉後の混乱に巻き込まれることなく、順調に発展することができた。資源価格の高騰でロシア経済が潤った2000年代には巨額の投資が行なわれ、国内の中産層が勃興したこともあり、いまや「ロシアのリビエラ」と呼ぶにふさわしいリゾートになっている。

 下の写真は海沿いの遊歩道だが、カフェやレストラン、土産物店が軒をつらねる様は、キリル文字の表記がなければ地中海リゾートといれわれてもわからないほどだ。ソチはロシア国内の「リゾート競争」で圧倒的に有利な立場にあるのだ。

 私が訪れたのは7月はじめだが、ロシアでは6月から8月の3カ月が夏休みのようで、街は子ども連れの観光客で賑わっていた。宿泊したのはソチ市内の中心部にある大型リゾートホテルで、1泊1万5000円で朝食と夕食がついていた(ハーブボード)。宿泊客のほとんどはロシア人で、2度の食事をホテルのブッフェで済ませ、あとはビーチやプールサイドで過ごしていたようだが、それでも庶民がごくふつうにこうしたバカンスを楽しめるまでこの国がゆたかになったことがわかる。

 なお、ソチはジョージアの係争地アブハジア共和国と接しているが、近年は武力衝突は起きておらず治安が安定したことで、「国境」を超えてアブハジア側に手頃なリゾートを求めるロシア人観光客が増えているという。

ロシア国内でも評価が分かれるスターリン

 ソチはビーチでのんびりするにはいいところだが(とはいえ砂浜ではなく丸石のビーチがつづく)、とりたてて観光する場所があるわけではない。そのなかで強いてあげれば、スターリンの別荘になるだろうか。

 ソチのマチェスタは良質な硫黄泉で知られており、多数のサナトリウムがつくられ、皮膚病や内臓疾患の治療のためにロシアじゅうから患者がやってくる。グルジア出身のスターリンはこの温泉を気に入り、下の写真の豪華なサナトリウムにはスターリン専用のバスルームもあったという。


  スターリンの別荘(ダーチャ・スタリヤーナ)はマチェスタから南に下った“ゼリョナヤ・ロシチャ(緑の林)”と呼ばれる山のなかにあり、周囲の景観に溶け込むよう建物全体が緑に塗られている。内部はスターリンの執務室のほか、ダイニングルームやビリヤード室、プールなどが公開されている。

 スターリンは(さまざまな意味で)現代史に大きな影響を残したが、ロシア革命の立役者であるレーニンや非業の死をとげたトロツキーと比べて、あまりにも暗い印象が強い。ロシア国内でも評価は分かれており、多くは否定的だが、「独ソ戦(第二次世界大戦)でヒトラーを撃退できたのはスターリンが指導者だったからだ」との声もあるようだ。

「黒海」の名前の由来とは?

 オスマン帝国の時代に黒海は「カラ・デニズ(黒い/暗い海)」とされ、この名がヨーロッパに伝わり定着したという。だが海の色が黒いわけではなく、オスマン人がなぜこう呼んだかは諸説ある。

 古代ギリシア人が黒海で活動を始めた紀元前1000年紀の初めには「ポント・アクセイノス(暗い/薄暗い海)」の呼称が伝わっており、それはおそらくイラン語に由来する。だがその後、黒海交易が活発化するとギリシア人はこの海を「ポントス・エウクシアヌス(客あしらいのよい海)」という奇妙な名前で呼ぶようになった(この由来は不明)。その古名が長い時代を経てオスマン時代に復活したというのがひとつめの説。

 ふたつめは、黒海はローマ時代に「偉大なる海」と呼ばれており、オスマン語の「カラ」には「偉大な」「途方もない」という意味もあるため、一種の誤訳によって、「偉大な海」が「黒い海」になったというもの。

 3つめは方角と色を結びつける風水の考え方が遊牧民族に伝わり、黒は北、白は西、赤は南、青は(時に)東を意味するという説。アナトリア地方に興ったトルコ系民族にとって、黒海は「北の海」すなわち「黒い海」ということになる。オスマン語と現代トルコ語で(西にある)地中海が「白い海」と呼ばれていることを考えると、一見無理筋なこの説にもそれなりの信憑性はある。

 地図を見ればわかるように、黒海は内陸部にあり、細い海峡で地中海(エーゲ海)とつながっている。ここから、もともとは淡水湖だったのではないかというのは誰もが思いつくだろう。

 じつは正確な地図を持たない古代ギリシア人もこのことに気づいていたようで、紀元前1世紀のギリシア人の旅行記には、エーゲ海のサモトラケ島に伝わる奇妙な伝説が紹介されている。それによると、太古の昔、東方の黒海は大きな湖だったが、あるとき水が突然あふれ出し、洪水は沿海の村を破壊し、エーゲ海に向かって流れ込んでボスポラスとダーダネルスの両海峡となった。サモトラケ島では漁師の網に彫刻の施された大理石の柱の一部がかかることがあるが、これは黒海の大洪水が地中海の水位を上げ、浸水して滅んだ古代文明の一部なのだという。

 黒海の水位が上昇した理由をギリシア人は、ドナウ川、ドニエプル川、ドン川というヨーロッパ大陸の5大河川のうち3つが流れ込んでいるからだと考えた(残りの2つはカスピ海に注ぐヴォルガ川とウラル川)。氷河期が終わって地球が温暖化すれば河川の水量は多くなるだろうから、これはかなり説得力があり、啓蒙主義時代の自然科学者も同じように考えていた。

 だがその後、この説は否定されることになる。温暖化によってたしかに湖の水位は上昇するだろうが、北極圏の氷河が溶けた水のほとんどは海に流れ込むのだから、内陸の湖以上に海の水位が上昇するはずなのだ。

古代ギリシア人の慧眼は素晴らしいが、実際は地中海の海水が黒海に流れ込むことでふたつの海はつながったのだ。

旧約聖書の「ノアの箱舟」は黒海が舞台だった!?

 1990年代になると、黒海海底の地質調査からさらに奇妙な事実が明らかになった。

 海底の地層のうち、低層では淡水生物の遺物が、上層では海洋生物の遺物が発見された。ここまでは予想どおりだが、その間の移行を示す地層が見つからなかったのだ。これは、淡水生物が棲息していた時期と、それが海洋の生き物に取って代わった時期がきわめて近接していることを示している。

 より詳細な調査では、この変化はおそらく7500年ほど前、紀元前5500年頃に起きたとされた。この時期、原黒海の湖面は現在より150メートル低い位置にあり、湖面下の地層にはっきりとその痕跡をとどめている。

 こうした事実を積み上げたうえで、研究者は驚くべき説を唱えることになる。

 海面上昇で地中海の海水が湖に流入するようになったが、それは最初はわずかな流れだった。だが150メートルもの落差と地中海の巨大な圧力を考えれば、それはたちまち奔流となって押し寄せたはずだ。もっとも大胆な推測では、これによって海と湖が同じ水位に達するのにわずか6日間しかかからなかった。

 紀元前5500年といえば、ナイル川やティグリス・ユーフラテス川流域で最初期の文明が興り、地中海の島々では船による交易が始まっていた。

黒海沿岸でもひとびとが農耕・定住生活を送っていたことはじゅうぶんに考えられる。

 そしてこのひとたちは、黒海誕生というとてつもない自然の驚異を体験することになった。わずか6日のあいだに150メートルも水位が上昇すれば、沿岸部の村々はたちまち飲み込まれ全滅しただろうが、一部のひとは生き残り、この未曽有の体験を長く語り伝えたにちがいない。

 これが古代世界に広まって、シュメールのギルガメシュ神話や旧約聖書の創世期に登場する大洪水の物語になったのではないだろうか。ノアの箱舟は、黒海が舞台だったかもしれないのだ。

黒海は海洋考古学の宝庫

 淡水湖が海に変わったことで、黒海は独特の生態系をもつようになった。

 地中海の海水が進入したとき、密度の濃い海水が湖の底を満たし、淡水と混じり合った上層部は海水の半分の塩分しかもたなかった。ボスポラスとダーダネルスの細い海峡しかないため、黒海では海水の撹拌が起こりにくく、誕生から7000年以上たった現在でもこの状態がつづいている。

 これによって黒海の下層は無酸素状態になり、上層から降ってくる植物やプランクトンなど動物の死骸が蓄積し、世界最大の硫化水素の貯蔵庫になっている。黒海ではニシンやカレイ、イワシなどが獲れるが、これらの魚は酸素のあるわずかな上層部で生命をつないであるのだ。


  1970年代になると、一部の海洋学者が、黒海は海洋考古学の宝庫だといいはじめた。深海の木材を侵食するのは軟体動物などだが、黒海の底ではバクテリアを除きどんな生き物も棲息できないのだから、古代船が手つかずに残っているというのだ。

 1990年代末、タイタニック号の発見で知られる探検家のロバート・バラードが小型の潜水ロボットの助けを借りて黒海の無酸素海域に挑み、5世紀のビザンツ期の船が、数日前に組まれたようなマストのまま沈んでいるのを発見した。その後、紀元前4世紀の古代船が発見されたが、淡水魚の干物を積んでいることまで確認できた。

 感激したバラードは、次のように述べた。

「まったく信じられないくらい奇妙な光景だ。人類の最古の時代から現代に至るまで、黒海を航海し、そして沈んだすべての船が――おそらく5万艘に上るだろうが――海底に横たわって保存されている可能性もある」

 近現代史のなかでは日陰者のように扱われてきた黒海は、じつは「驚異の海」なのだ。

橘 玲(たちばな あきら)

作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本(新潮文庫)など。最新刊は、『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論』(朝日新書) 。

橘玲『世の中の仕組みと人生のデザインを毎週木曜日に配信中!(20日間無料体験中)

編集部おすすめ