シンガポールをはじめて訪れたとき、なぜチャイナタウンがあるのか不思議だった。

 その頃は、香港とシンガポールは同じようなところだと思っていた。

香港に住んでいるのはほとんどが広東人で、彼らはみんな“中国人”だからチャイナタウンなどない。

 シンガポールの中心部は、シンガポール川が海に注ぐボート・キーやクラーク・キーと呼ばれる一帯だ。“Quay”というのは埠頭のことで、19世紀のイギリス植民地時代はここに沖仲仕が集まり、インドや中国からやってくる貨物船の積荷を捌いた。

 シンガポール川の左岸は国会議事堂や最高裁判所などの行政施設が並び、右岸は高層ビルが立ち並ぶ金融街だ。金融街のちょうど裏手に地下鉄のチャイナタウン駅がある。階段を上って通りに出ると、たしかに漢方薬や茶・乾物、中国菓子などの店が並んでいるが、シンガポール市内ならどこでも見かけるからとくに珍しいわけではない。

 中華街の突きあたりまでくると、突然、極彩色の建物が現われる。シンガポール最古のヒンドゥー寺院スリ・マリアンで、強い香がたかれるなか信者たちが祈りをささげている。

 なぜ、チャイナタウンにヒンドゥー寺院があるのだろう? これもシンガポールの不思議のひとつだ。

シンガポール建国の歴史

 東南アジア地域研究の第一人者である白石隆は、名著『海のアジア』(中公新書)のなかで、シンガポールの「建設者」トーマス・スタンフォード・ラッフルズについて書いている。

 1781年、西インド諸島の大英帝国植民地ジャマイカに生まれたラッフルズは、14歳で東インド会社職員に採用され、24歳の時にマレー半島のペナンを訪れた。語学に秀でたラッフルズは、ロンドンからペナンに向かう船中でマレー語を習得し、現地の「マレーの王たち」の工作責任者に任命された。

松平定信の改革が失敗し、将軍家斉の放漫財政とロシアからの度重なる通商要求で江戸幕府が内憂外患に陥った頃だ。

 ヨーロッパではナポレオンが大陸を支配下においたものの、絶頂期はすでに過ぎて、破滅の待つロシア遠征を決行する直前にあたる。このとき東南アジアで最大の懸案は、オランダが支配していたジャワの権益だった。

 ラッフルズは当初、ナポレオン軍に敗北して力を失ったオランダからジャワを奪い、バタビア(現在のジャカルタ)を中心に、インドからマラッカ海峡(マレー半島とスマトラ島の間)を抜けてジャワに至り、そこから蘭領東インド(インドネシア)の島々を伝ってニュー・ホランド(オーストラリア)に達する広大な海域を支配下に置くことを構想した。このときラッフルズは、セレベス(スラウェシ)島に住む海洋民族ブギス人を中心とする「新帝国」を思い描いていたという。

 だがナポレオン戦争が終わると、ラッフルズの夢はたちまちかき消えてしまう。フランスと対仏大同盟のあいだにパリ条約が締結され、ジャワがオランダに返還されてしまったのだ。

 だがちょうどこの頃、インド産の阿片を中国に輸出する阿片貿易が大きく成長していた。大英帝国のアジア政策は、マレー半島の先端に対中国貿易の拠点をつくり、大量の阿片を香港や上海に運び込んで、茶や陶磁器、絹などと交換することに変わった。こうして建設されたのが、シンガポールだ。

 このとき大英帝国は、すでに200年に及ぶ植民地経営の歴史を経ていた。アメリカに独立され、インドでの反乱に手を焼いていた彼らは、軍隊を派遣して土地を奪い取る「植民地」の拡大には興味を失っていた。

“後期帝国主義”において大英帝国の戦略は、海のアジアに物流拠点を確保し、自由貿易によってヨーロッパとインド・中国を結び、市場を拡大していく「グローバリズム」だった。そのために建設されたのが、香港・上海(租界)であり、ペナン・マラッカであり、シンガポールだった。

 1839年の阿片戦争は、清朝の阿片禁輸政策からこの自由貿易を守るためのもので、もとより大英帝国に中国を植民地化する意図はなかった。日本が明治維新により近代国家への道を歩みはじめたのはそれから28年後の1867年だが、当時の日本人に後期帝国主義の自由貿易戦略が理解できるはずもなく、朝鮮半島と満州を植民地化する“古い”ゲームに固執して破滅への道を突き進んだことは歴史の示すとおりだ。

元々は中国人の国ではなかった

 シンガポールを「建国」したラッフルズには、もともとこの貿易基地を中国人の町にする考えはなかった。

 『海の帝国』に、ラッフルズの考案したシンガポールの都市計画図が掲載されている(正確には、ラッフルズの都市計画をもとにジャクソン中尉が作成した)。

 1819年の「建国」当時、ラッフルズはまず、この地域に暮らしていた多様なひとびとを「コミュニティ」に分類した。もっとも基本的なコミュニティはマレー人(現地人)、ヨーロッパ人、中国人で、ラッフルズは首長たちの土地には手をつけず、シンガポール左岸を政府地域とし、その北に兵営をつくり、東側を「ヨーロッパ人」地区とした(現在のラッフルズホテルがあるあたりだ)。「中国人」はすべて、シンガポール川右岸に居住することとされた。

 次いで1823年、埠頭の並ぶシンガポール川右岸は商業地区と定められ、ここに住みついていた「中国人」は川から離れた内陸部に移された。この商業地区が現在の金融街で、新たにつくられた中国人地区がチャイナタウンだ。このあたりにはインド人が住んでいたが、彼らはシンガポール川のさらに上流に移された。

こうして、チャイナタウンの真ん中にヒンドゥー寺院だけが残ることになった。

 次いで、シンガポール川沿いに住んでいた首長一族(マレー人)がチャイナタウンのさらに西に移され、ヨーロッパ人地区の東に「アラブ人」地区、スルタンに仕える「マレー人」一党の居住区、「ブギス人」地区などが定められた。アラブ人やブギス人の居住区はその後北に移動し、現在のブギス・アラブ地区になっている(その北側がリトル・インディアと呼ばれるインド人居住区だ)。

 シンガポール右岸は商業地区を除けばすべて「中国人」地区とされたが、彼らは出身地によって「福建人」「広東人」「潮州人」などの居住区に分かれた。

 これはいうまでもなく、「分割して統治せよ」という大英帝国の植民地政策の基本で、このように分類されたひとびとは生活の大半を自分たちの居住区のなかで過ごし、ただ商業地区でだけ他の「民族」と接触することになった。シンガポールはもともと、多民族の「複合社会」として設計されたのだ。

 シンガポールが現在のような華僑の町になったのは、白石によると、大英帝国がシンガポールを自由港としたために関税収入が得られず、植民地政府が他に財源を求めなくてはならなくなったからだという。

 シンガポールの主な経済は、貿易以外には胡椒やガンビル(染料や皮なめし、薬用などに使われるつる性の植物)の栽培しかなかった。現在の繁華街オーキッド通りにもかつてはプランテーションが広がっていたが、こうした商売は中国人の農園主が中国大陸から苦力(クーリー)を呼び寄せて行なっており、三合会、義興会などの秘密結社(会党)の支配下にあって、植民地政府が介入する余地はなかった。

 そこで政府は、イギリス人が「信用できる」と考えたマラッカ出身の中国人(華僑)などに、阿片の独占販売権や賭博税の徴収権などを与え、その上前をはねることで自分たちの利益を確保しようとした。

 シンガポールの人口を見ると、1824年の1.1万人から1850年の8万人に大きく成長し、そのうち62%を中国人が占めるが、男女比は女1人に対して男11.3人だった。このことからわかるように19世紀のシンガポールは中国大陸からの出稼ぎが集まる巨大なタコ部屋で、秘密結社の募集で海を渡ってきた男たちは、農園で稼いだカネを阿片と博打で巻き上げられた。

その利益を、イギリス人と華僑の商人が山分けしていたのだ。

 このような歴史を知ると、シンガポールになぜチャイナタウンがあるのかがわかる。それはアジアに暮らす多様なひとたちが「マレー人」や「アラブ人」「インド人」「福建人」「広東人」あるいは「日本人」に分類され、民族的アイデンティティを獲得していった“近代”のひとつのモニュメントなのだ。

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