日本企業に対する投資家の企業価値評価が低い。主因は説明不足にある。
マテリアリティ(重要性)に適合しているか
ESG経営・ESG投資が隆盛を極める中、一部の日本企業の経営者は、「世間で要求されるすべてのESGの項目に同等に対応しなければならない」とコーポレートスタッフに指示を出す。
一部の運用機関のESGアナリストは、すべての業界のIR担当者に共通のESGアンケートを持参して、「このESGの全項目にそれぞれ完全に答えてください」と要求する。このような傾向はないだろうか。
高邁(こうまい)な理念を持つ多くの日本企業は、企業市民として、少しでもSDGs(持続可能な開発目標)に貢献すべく、そのためにESG経営をおろそかにしてはいない。
しかし、すべてのESGのKPI(主要業績指標)が、企業価値に対して同等の重要度があるわけではない。
資源・エネルギー産業や巨大な工場を有する自動車産業では、温室効果ガス排出量(GHG)の削減は極めて重要であろう。
このように業界ごとに、ESG活動が企業価値に影響する度合い、目的、重要度が異なる。
したがって、「ESGマテリアリティ(重要性)」を個別の業界ごとに勘案する必要がある。経営者も投資家も、「そのESG活動がマテリアリティに合致しているか」を個々の重要性に鑑みて検討すべきなのである。
連載最終回の本稿では、世界の医薬品セクターのESGマテリアリティにつき、筆者が英国AXA Investment ManagersのYo Takatsuki, Head of ESG Research and Active Ownership(当時) と共同で行った実証研究を記載した論文(柳 2019)を紹介して、そのインプリケーションを考察する。
グローバル医薬品セクターのESG マテリアリティ
「柳モデル」(柳 2021a)から、ESGの価値がPBRに反映される蓋然性が高いことが示唆されたが、ESGのKPIは同等の重要性(マテリアリティ)を持つわけではなく、業界によってその軽重は個別に異なるであろう。
企業が営む事業や環境によって、企業価値を左右するESGの非財務情報が異なるのは自然なことである。
例えば、旧SASB(米国サステナビリティ会計基準審議会:VRFを経て2022年にISSBへと発展)によってSASB Materiality Mapが作成されている。これによって、企業が属する業種と、それに対応する重要なESG項目が公表されている。
Grewal et al. (2017) は、米国企業をユニバースとして、SASB Materiality Map に準拠したESGのKPIが、それ以外のESGのKPIよりも企業価値(株価)に強い影響を及ぼしていることを証明している。
柳(2019)は、グローバル医薬品セクターのマテリアリティを考察している。スタートラインとして、図表1にSASBのバイオテクノロジー&医薬品セクターのマテリアリティ(SASB Materiality Map: Biotechnology & Pharmaceuticals)のサマリーを編集して掲載する。
また、エーザイでは、このような米国のSASBのマテリアリティをベースにして、さらに毎年世界の機関投資家とESGの議論を行って、そのフィードバックを取り込むことでアップデートしつつ、「エーザイのマテリアリティ・マトリックス」を「エーザイ価値創造レポート2021」で開示している。日本企業の参考開示事例として、図表2で紹介したい。
SASBもエーザイも、ヘルスケア業界では、環境問題への取り組みは重要であるが、それ以上に人的資本、知的資本、そして医薬品アクセス(ATM)が重要であると考えている。
こうしたマテリアリティの見地から、筆者はエーザイCFO時代も含めて、人的資本と知的資本を重視したESG会計として「ESG EBIT」(柳 2021b)を提案した(連載第7回参照)。
また、インパクト加重会計では、優先的に「エーザイの従業員インパクト会計」(柳 2021c)と「顧みられない熱帯病治療薬無償配布の製品インパクト」(柳 2022)を計算して開示した(前者は連載第8回、後者は連載第9回参照)。
このような「ESGマテリアリティ」が、米国や日本という国境を越えて、グローバル医薬品セクターにおいても一定の共通の示唆があるのか。
筆者は、世界の大手製薬企業をユニバースにして、グローバル医薬品セクターのESGマテリアリティにつき、英国AXA Investment Managers のYo Takatsuki, Head of ESG Research and Active Ownership(当時)と実証研究を行った(柳 2019)。
まず、データ基準日はAXAとの取り決めにより、全て2019年2月15日とした。ESGのKPIについては、SASB のバイオテクノロジー&医薬品セクターのマテリアリティと合致・類似する項目を、国際的な大手ESGデータプロバイダー3社のVigeo, MSCI, SustainalyticsのESG評価から入手可能な34項目を抽出 ※1。PBRやROE、時価総額といった財務情報はBloombergから入手した。
結果としてユニバースは、グローバル医薬品セクター内で該当するESGマテリアリティである34項目の全てを、入手可能な大手医薬品企業主要59社について、時価総額順に抽出した ※2。
したがって、各評価機関のESGのスコア34項目x 59社=延べ2006サンプルと、それぞれの対応するPBRとの相関関係を調査したことになる。
かかる前提で、柳モデルに依拠して、以下のような2ファクターモデルを適用した。
<柳モデルに基づく回帰式:2ファクターモデル>
被説明変数は各銘柄のPBR(P/B)で、説明変数はROEとESG ファクター(34項目の各評価機関のスコア)の二つである。
PBRはROEの水準に大きく影響を受けるため、ROEの影響を調整した上でもなおマテリアリティから厳選したESGファクターに説明力があるかどうかを確認するモデルとなっている。
PBRと正の相関関係を示し、なおかつp値が10%未満で有意なマテリアリティの項目だけを最終結果として図表3に掲載する。いずれのt値も2前後であり、PBRと正の関係の比較的強い七つのESGマテリアリティを特定することができた。
VigeoのESG評価項目からは、HRS1.1 : Promotion of labour relations(社内の労使関係の改善)、CIN1.1 : Promotion of the social and economic development(地域社会の社会的・経済的発展の促進)、C&S2.4 : Integration of social factors in the supply chain(サプライチェーンにおける社会的要素の統合)、C&S3.3 : Transparency and integrity of influence strategies and practices(医薬品企業としての影響力行使の戦略と実践における透明性と高潔さ)の四つ、MSCIからは、Access to healthcare score(医療へのアクセスのスコア), Access to healthcare management score(医療管理へのアクセスのスコア)の二つ、SustainalyticsからはS.4.2.14 Value of drug donations-weighted score(医薬品寄付の価値に関する加重スコア)の一つ、合計七つが90%以上の確率でPBRと正の相関があることが示唆された※3。
エーザイは2005年の株主総会の特別決議で、世界で初めて企業理念を定款に挿入したパーパス経営の会社である。
その企業理念であるhhcは2022年の株主総会でhhcecoへと進化しているが、 患者様や生活者様のベネフィット第一主義をうたい、「会社の使命は患者様、生活者様を中心としたPeopleへの貢献である」としている。これは広義のESGであり社会的インパクトである。
さらに、そこにとどまらず、「その結果として売上・利益がもたらされる」とも明記されており、これは広義の企業価値創造である。
つまり、「使命」としてのESG・社会的インパクトと、「結果」としての経済的価値を両立する(そして、ショートターミズムを排して、この「使命と結果の順序」が重要であると強調する)パーパスが、エーザイの企業理念には当初から深くビルトインされているのである。
筆者の行った実証研究では、エーザイでは、「使命」としての患者様貢献のために今、人的資本、知的資本に優先的に先行投資をすると、その「結果」、5年-10年の長期で事後的にPBRが高まる正の相関がある。
つまり、「柳モデル」と「エーザイのESGとPBRの重回帰分析」(柳 2021a)は、ファイナンス理論から、当時のCFOとして、この「パーパスを証明した」ことに他ならない。
さらに、この企業理念を端的に具現化するプロジェクトの一つとして、本連載でも取り上げたが、顧みられない熱帯病の一つであるリンパ系フィラリア症(LF)を制圧するための医薬品アクセス(ATM)の活動がある。既述のようにATMはSASBでもエーザイのマテリアリティでも優先度が高く、実証研究でもPBRと強い相関がある(柳 2019)。
エーザイでは、パーパスに従い、LF治療薬であるDEC錠を開発途上国の患者へ世界保健機関(WHO)とタイアップして無償提供を続けている。WHOとの当初の契約期限であった2020年時点で既に20億錠の無償提供を完了しており、エーザイでは期限を延長して、この「顧みられない熱帯病」を完全に制圧するまで無償で提供し続ける予定である。
このATM活動のSDGsに資する社会貢献は、寄付ではなく、あるいは単純なCSR(企業の社会的責任)だけにとどまらず、投資家・株主にも受け入れられる「超長期投資」の側面もある「プライス・ゼロ戦略」と考えている。すなわち社会的価値と経済的価値の両立(CSV)である。
当初は赤字プロジェクトとして短期的な利益やROEにはマイナス要因であるが、超長期では新興国ビジネスにおけるブランド価値、インド工場の稼働率上昇(+先進国からの生産シフト効果)による生産性向上や従業員のスキル/モチベーション改善などを通してNPV(正味現在価値)がプラスになることをCFO(当時)である筆者は実際に試算していた。
例えば、当社財務部門は2018年度の管理PLを試算しているが、連結原価低減効果から当プロジェクトの単年度黒字化を確認している。
そして、柳・フリーバーグ(2022)が、DEC錠無償配布の「製品インパクト」をインパクト加重会計(IWA)のフレームワークで試算したところ、2014年から2018年の5年間での16億錠のDEC錠の無償提供が、総計7兆円レベル、年間ベース約1600億円の社会的インパクトを創造することが示唆された。
エーザイのインパクト加重会計では、そのEBITDAは倍増できる。つまりエーザイの本源的な企業価値評価は2倍に値する。知る限り「世界初のグローバルヘルスの製品インパクト会計」であり、これも筆者にとっては、社会的価値と経済的価値を両立する「エーザイのパーパスの証明」なのである。
「柳モデル」とESGの旅は続くBelo (2022)および高須(2022) の経済学に基づく企業価値モデルがある。
【企業価値=Pp有形資産+Pl人的資産+Pk知識資産+Pbブランド資産】 ※4
彼らの研究でも、米国ではかつて50%のシェアのあった有形資産は企業価値の半分も説明できない一方、無形資産がシェアを高めてきた(日本は米国と比べて有形資産依存度が高く、無形資産のシェアは低い)。この結果は、オーシャントモのデータや日米PBR比較とも整合性がある。
つまり、本源的には「見えない価値」が企業価値の半分以上を占める。そして日本企業のESG(非財務資本)の価値は過小評価されている。
ここから、本連載では「ESGの見えざる価値を企業価値につなげる方法」を求めて、我々はESG経営の正解のない旅に出た。その地図が、ESG(非財務資本)の価値がPBRと関係していることを仮説にして、ESGと企業価値をつなぐ「柳モデル」であった。
本連載第1回で詳述したように、柳モデルの裏付けとして、世界の投資家の意見がある。その過半数が「日本企業はESG/インパクトと企業価値の関連性を説明してほしい」「ESG/インパクトの全てまたは大半をPBRに織り込むべきだ」と考えている。
そして、エーザイの重回帰分析、TOPIX100&500への柳モデルの適用、ESG会計としてのESG EBITの提案、インパクト加重会計による「エーザイの従業員インパクト(雇用インパクト)」や「顧みられない熱帯病治療薬無償配布の製品インパクト会計」の新機軸の計算と開示、世界の製薬会社の実証を含むマテリアリティとパーパスの議論など、さまざまな柳モデルのエビデンスも模索してきた。
我々はまだ旅の途中であり、ゴールは遠いのかもしれないが、多くの日本企業が柳モデルと回帰分析、ESGの会計、インパクト加重会計等の定量化の手法を創意工夫して訴求して、ステークホルダー資本主義における説明責任を果たすことで、相関と因果をつなぎ、潜在的な非財務資本の価値を顕在化させて企業価値評価を大きく向上させていくことを願ってやまない。筆者は日本企業の潜在的なESGの価値を信じている。