ハバロフスク市街から空港に向かって車で20分ほどのところに広大な墓地公園がある。

「スターリン統治下の圧制に倒れた犠牲者」の墓碑が立つ入口には、生花や造花を売る店が並んでいる。

そこから5分ほど歩いた鉄柵に囲まれた一角に、日本人墓地はある。

 ここには戦後シベリアに抑留され、異国の地で無念の最期を迎えた約300人の日本人が眠っているとされるが、名前の刻まれた墓はごくわずかで、ほとんどは地面に石で四角の枠がつくられているだけだ。

 彼らの多くは零下40度を下回る極寒のなか、飢えと病気で骨と皮だけになって死んでいった。厳冬のシベリアでは墓穴を掘ることもできず、遺体は春になるまで、足に名札をつけただけで外に積み上げられていた。ジュネーヴ条約で捕虜の火葬が禁じられているためで、凍土が溶けると収容所(ラーゲリ)の近くに土葬されたのだ。それらの遺骨を集め、日ソの国交が回復した1956年にこの日本人墓地がつくられている。

 墓地の片隅に、新しい花が手向けられた墓がいくつか並んでいる。「1984年没」などと彫られているから、釈放後もこの地に留まって家族を営んだ旧日本兵の墓なのだろう。そのなかで「吉田明男」氏だけは、高杉一郎『シベリアに眠る日本人』(岩波書店)によってその人生を知ることができる。

 吉田氏は元情報将校の陸軍中尉だったため、ソ連の刑法58条(反革命罪)によって重禁錮25年の刑に処せられたが、1956年の日ソ国交回復で帰国を許される。

 吉田氏は応召の半年前に結婚しており、新婦を故郷の秋田市に残してきた。だが復員船の出るナホトカまで行ったにもかかわらず、吉田氏はなぜか、故郷を目の前にしてハバロフスクに引き返してしまう。

 ハバロフスクの放送局で働きはじめた吉田氏は、やがて女医のターニャと結婚し2人の子どもをもうけ、1980年に61歳で没した。この墓は、妻のターニャが建てたものだ。

 吉田氏が帰国を諦めた理由は、日本では自分はもう還らぬことになっており、妻に再婚話が出ていることを知ったからだという。再婚した日本人妻が1984年にハバロフスクを訪ね、日本人墓地の土と石を拾って吉田氏の実家に墓を建てたことも記されている。

ソ連の満州侵攻による悲惨な光景

 1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告し、満州国境を越えて日本領深く侵入した。弱体化していた関東軍はソ連軍(赤軍)の近代兵器の前に総崩れとなり、旧満州国は大混乱に陥った。この撤退で起きた悲惨な出来事はすでに多くの手記や回顧録で語られているが、ここではソ連崩壊後に公開された赤軍の報告書から、彼らが見た光景を引用しておきたい。

 日本軍が退却の際、大量に日本人婦女子を射殺した例をいくつも赤軍司令部はあげている。鶏寧-林口への道で、銃で撃たれ刀で斬られた日本人婦女子の集団がいくつか発見された。その最初の集団はオクシ市の南10キロの鉄道用地で発見され、自動車の中に250人いた。彼らは自動火器で射殺されていたが、一部の者は刀で腹を斬られていた。日本人に銃刀で殺された150人からなる第二の集団が適道駅付近で発見された。

このようにして殺された日本人婦女子はすべて顔に白い布がかけられ、頭を東に向けられていた。
(中略)
 捕虜になった日本人は、この殺人は日本人が無条件降伏を受け入れる前に行われたとソ連兵に説明した。軍事捕虜が言うには、ソ連軍の急速な侵攻が婦女子大量殺人の理由である。結果的に、避難する日本人住民は関東軍の退却路で停滞した。関東軍は避難民を保護することも、円丘(小山)へ連れて行くこともできなかった。捕虜が言うには、婦女子の射殺は本人の同意の下に行われていた。ともかく日本人にとって、それが誰であれ、捕虜になることは恥なのだ。(ヴィクトル・カルポフ『ソ連機密資料が語る全容 スターリンの捕虜たち』〈北海道新聞社〉)

 8月14日に日本がポツダム宣言を受諾し、翌15日に日本軍の降伏を告げる玉音放送が流れ、満州の関東軍も戦闘を停止し次々とソ連軍に投降していった。19日には国境に近いジャリコーヴォで極東方面軍総司令官ワシレフスキー元帥と関東軍参謀長秦彦三郎が会談し、すみやかな武装解除と捕虜収容に同意している。

 日本軍に対して無条件降伏を求めたポツダム宣言第9項には、「日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る」とある。

 ナチスドイツの降伏で第二次世界大戦の帰趨が決まった後、アメリカ(トルーマン)、イギリス(チャーチル)、ソ連(スターリン)の3首脳がベルリン郊外のポツダムに集まり、戦後処理について話し合った(ポツダム会談)。この時点ではまだ日ソ中立条約は有効でソ連は日本軍と交戦状態にはなかったため、日本への降伏勧告であるポツダム宣言には名を連ねていないが(そのかわりに中華民国の蒋介石国民政府主席が加わった)、スターリンもこの条項に合意したと考えるのは当然だ。

 しかしスターリンはポツダム宣言の捕虜送還条項は一顧だにせず、捕獲した日本兵をシベリアに拉致し、鉄道建設や石炭採鉱などに使役した。これが、シベリア抑留だ。
 

シベリア抑留者は約65万人にものぼる

 ソ連軍の捕虜となり、強制労働に従事させられた日本兵は約65万人とされている。彼らはモスクワと日本海を結ぶ全長9297キロのシベリア鉄道に沿ってシベリア全域に移送され、日本人収容所はモンゴルやカザフスタン、さらにはカスピ海を越えて黒海に近いコーカサスにまで点在した。

 終戦当時のソ連の地域別配置計画によれば、日本人捕虜のうち15万人はバイカル湖の北を通って日本海へと至るバイカル・アムール鉄道(バム鉄道/第2シベリア鉄道)の建設に充てられた。それ以外は沿海地方(ウラジオストク)やハバロフスク、イルクーツクなどで石炭採鉱や鉱石採掘、木材調達のほか、工場・港湾の建設などに従事することになった。

 日本軍が捕虜になったのは8月で、彼らは夏服のままシベリアへと移送されることになった。だがソ連が旧満州国内にある工場や鉄道などの撤去と(ソ連国内への)輸送を優先したため、捕虜の移送計画は大幅に遅れた。紙の上では越冬するのにじゅうぶんな食糧の配給が指示されていたものの、マローズ(寒波)が到来する直前に収容所にたどり着いた捕虜は、食事も支給されず、冬用軍装品も寝具も持たず、餓死寸前のあり様だった。その収容所にも、越冬のための食糧として2週間分の穀物、1週間分の獣脂しか届かなかった。

 シベリアの冬は零下40度を下回り、ほとんどの交通は途絶える。とりわけツンドラ地帯に収容所が点在するバム鉄道の建設現場は凄惨で、飢えと寒さのため、最初の冬で収容者の半分が死亡するところもあった。

 シベリア抑留の犠牲者は5万5000人とされているが、『スターリンの捕虜たち』でヴィクトル・カルポフは、新たに公開された公文書をもとに、ソ連領外の満州、北朝鮮、遼東半島の収容所を加えれば死者の総数は9万2000人を超えると述べている。

 極限状況の抑留生活についてはすでに多くの手記が書かれているから、ここであらためて述べることはしない。その一方で、歌手の三波春夫や元読売ジャイアンツ監督の水原茂のように、自身の抑留体験をほとんど語らなかったひともいた。

 1953年にスターリンが死ぬと、ソ連政府は少数の埋葬地にかぎって墓参を認めるようになった。ソ連崩壊でようやく遺骨の収集が本格化し、元抑留者や厚生労働省による日本人墓地の整備や慰霊碑の建立も進められた。だが抑留者の大半が鬼籍に入りつつあるいま、その多くは墓参に訪れる者もなく寂しく佇んでいる。

瀬島龍三氏とシベリア抑留

 ハバロフスクには日本人墓地のほか、1995年に日本政府が建立した「日本人死亡者慰霊碑」があり、2003年には小泉純一郎総理大臣が供花・黙祷している。

 慰霊碑は赤レンガづくりのモニュメントで、アーチのなかに柱を建て、その内側を球形にくり抜いたつくりになっている。ふだんは訪れるひととてなく、日陰のベンチに警備の兵士が座っているだけだ。ここもかつては抑留者の墓地で、周囲はなにもない原野が広がっていたというが、いまでは郊外の新興住宅地になり瀟洒な家が建ち並んでいる。

 この慰霊碑は、敷地1万5000平米の平和慰霊公苑のなかにある。太平洋戦争戦没者慰霊協会が造園したもので、苑内の一角に寄付者の名前が刻まれている。

それを見ると、抑留者と思われる個人以外に、日本の大企業の名がずらりと並んでいる。

 不思議に思ったのだが、公園の入口に置かれた石碑の裏側を見て合点がいった。そこには、「題字 瀬島龍三」とあった。

 元大本営作戦参謀の瀬島龍三は終戦から1956年までシベリアに抑留されており、帰国後は伊藤忠商事に入社し、戦後賠償や自衛隊への航空機納入などさまざまなビジネスで辣腕をふるった。その後、中曽根政権で第二臨時行政調査会の委員として国鉄や電電公社の民営化に尽力し、いつしか「昭和の参謀」と呼ばれるようになった。山崎豊子『不毛地帯』のモデルとしても知られている。

 瀬島は11年間の抑留生活の多くをハバロフスクの収容所で過ごした。抑留者の慰霊のための施設としては最大規模の平和慰霊公苑は、日本の政財界に大きな影響力を持った瀬島の後押しを受けてつくられたのだろう。

 だが瀬島に対しては、抑留者のあいだで毀誉褒貶が半ばしている。

 瀬島は敗戦時、関東軍の参謀として、参謀長秦彦三郎とともにワシレフスキー元帥との「停戦交渉」に臨んだ。このとき日本兵の抑留と使役に同意したのではないかという“密約説”を一部の抑留者が唱えたからだ。

 その後多くの歴史家がこの「昭和史の空白」を解明しようとしたが、ソ連崩壊後に公文書が開示されたことでその謎はあっさりと解けた。

 誤解は、日本側がワシレフスキー元帥との会見を一貫して「停戦交渉」と記したことから生じている。たしかに「交渉」であれば、双方が意見を述べ合い妥協や合意に至ることになる。

 だがソ連側からすれば、無条件降伏した日本軍にはそもそも交渉の余地はない。ワシレフスキー元帥は日本側に「命令」しただけであり、それに対して秦参謀長がいくつかの要望(お願い)を伝えたのが実態だった。“密約”も同じことで、相手が約束する以上、なんらかの対価を差し出さなければならない。だがソ連は一方的に好きなものを奪うことができたのだから、そもそも約束の必要すらないのだ。

 シベリア抑留の正式決定は8月23日にスターリンが署名した「50万人の日本軍軍事捕虜の受け入れ、配置、労働使役について」と題された国家防衛委員会決定No.9898(極秘)によるが、それ以前から日本への宣戦布告と日本人捕虜の抑留が既定の事実だったことはさまざまな証言から明らかになっている。たとえば、日本人捕虜への民主化教育(共産主義の洗脳)を担当したイワン・コワレンコ(元共産党中央委員会国際部副部長)が「日本新聞」(日本人捕虜の宣伝工作のために発行され、収容所内で閲覧された日本語新聞)の編集長を命じられたのは7月末で、まだ日本とソ連とのあいだに戦争は始まっていなかった。

日本国に捨てられた人たち

 とはいえ、抑留者が「自分たちは日本国から捨てられた」と考えたのは理由のないことではない。

 戦況が悪化した昭和20(1945)年6月から、日本政府は中立条約を結んでいるソ連の仲介でアメリカとの戦争終結を模索しはじめる。鈴木貫太郎首相らは、天皇側近であった近衛文麿元首相を特使としてソ連に派遣し、ソ連首脳と終戦交渉の条件を決め、天皇の裁可を仰ごうとした。

 だが敗戦必至の状況で、対等の交渉は望むべくもない。そこでソ連に対する譲歩案として、『対ソ和平交渉の要綱(案)』が極秘裏につくられた。

 外務省の『終戦史録』にも掲載されている要綱(案)の第3項「陸海軍軍備」ロの項は、次のように書かれている。

「海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむことに同意す」

 さらには第4項「賠償及其他」のイ項は次のように書く。

「賠償として一部の労力を提供することには同意す」

 敗戦間際の日本政府は、“国体護持”と引き換えに日本兵をスターリンの奴隷にすることになんの躊躇もなかった。

 遠くシベリアの地で、訪れる者もなく眠るひとびとの墓は、「国家」なるものの底知れない冷酷さを私たちに教えてくれる。

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