サラリーマン漫画は時代の合わせ鏡だ。

たとえば、少年漫画の場合、舞台になる学校の風景は数十年経ってもあまり変わることはない。
ハロルド作石の『BECK』が藤子不二雄Aの『まんが道』を踏襲したストーリーを展開していてもまったく違和感がないのはそのせいである。少女漫画の場合も、恋するティーンの心の揺れ動きはいつの時代もあまり変わらないだろう。しかし、サラリーマン漫画の場合は、舞台となる企業の様子やそれをとりまく社会事情、そしてテーマとして描かれるサラリーマンとしての生き方そのものが時代とともに大きく移り変わっていく。

真実一郎著『サラリーマン漫画の戦後史』は、ブロガーでありライターである著者がサラリーマンを題材にした主な漫画を手際よく分解し、作品中で描かれているサラリーマン像を抽出して、戦後60余年の日本企業とそこで働くサラリーマンたちの精神史を描き出していく一冊である。それぞれの作品に対しても、読み応えのある作品批評を展開されており、サラリーマン漫画評論集としても楽しめるつくりになっている。

戦後の復興期、サラリーマン層の増大とともに、サラリーマンを主役した小説や映画がヒットを飛ばすようになった。そこでは人柄さえよければ出世する「人柄主義」、会社を擬似家族になぞらえた「家族主義」、そして正しいことをしていれば必ず勝利する勧善懲悪が貫かれていた。これを著者はサラリーマン小説のヒットメーカー、源氏鶏太になぞらえて「源氏の血」と呼ぶ。大ヒットサラリーマン漫画『課長島耕作』(弘兼憲史)も、この「源氏の血」を巧みにアレンジした作品なのだ。

高度経済成長期になると、サラリーマン層が読む新聞や週刊誌に「フジ三太郎」(サトウサンペイ)や「サラリーマン専科」(東海林さだお)などが掲載されてサラリーマン漫画が多くの読者に読まれるようになった。しかし、1970年代のオイルショックで不景気に直面すると、「商社の赤い花」(諸星大二郎)のような終身雇用、会社至上主義的なサラリーマン社会に対するカウンターとしての作品が登場するようになる。ちなみに、大人になることとサラリーマンとして働くことの哀切を描いた『劇画オバQ』の作者、藤子・F・不二雄はたった1日で就職した会社を辞めた“サラリーマン失格”組だった。


80年代に入ってバブル経済期を迎えると、同時にサラリーマン漫画は隆盛を極める。これは漫画を読んで育ってきた団塊世代の読者層がサラリーマンとして活躍する時代と重なっている。『課長島耕作』の島耕作がバリバリと活躍してサラリーマンとしての自己実現を果たし、『気まぐれコンセプト』(ホイチョイ・プロダクション)の登場人物たちが享楽的な生活を楽しむ一方で、『妻をめとらば』(柳沢きみお)の高根沢八一は多忙と孤独の果てに倒れ伏す。

バブルが崩壊すると、作者自ら島耕作を仮想敵にしていたと語る『宮本から君へ』(新井英樹)の宮本浩が泥臭く取引先に土下座を敢行し、『100億の男』(国友やすゆき)の富沢琢矢は「人生は戦である」と宣言して終身雇用制・年功序列に守られたサラリーマン社会に訣別を宣言する。『サラリーマン金太郎』(本宮ひろ志)の矢島金太郎は自分が「主」であり会社が「従」であることを絶叫し、『いいひと。』(高橋しん)の北野優二は企業の成長至上主義に疑問を投げかけつつ企業のリストラ担当者として厳しい現実にも直面する。

00年代に入るとサラリーマンを取り巻く状況はさらに厳しくなっていく。『働きマン』(安野モヨコ)の松方弘子はガムシャラに働きながらその意味に悩みはじめ、『午前3時の無法地帯』(ねむようこ)では労働に対して会社による承認ではなく、仲間たちによるローカルな承認が求められるようになる。『ぼく、オタリーマン。』(よしたに)になると、主人公は出世すら拒否し、会社外での趣味での承認を求めているのだ。

ここに挙げたのは、本書の中で取り上げられた作品のほんの一例だが、これだけを見てもサラリーマン漫画は見事に世相を反映していることがわかる。戦後、サラリーマン漫画によって描かれ続けた、多くの日本人の「最大公約数」的なサラリーマンファンタジーは島耕作の活躍で絶頂を極め、00年代に入ってからは自分自身=1という「最“小”公約数」を描きはじめるようになった。
島耕作が社長を退任して肩書きを失うとき(すなわち同時代のサラリーマン読者が引退するとき)、戦後の「最大公約数」的サラリーマン像は終焉を迎えるだろう、と本書は結ばれる。

著者は執筆の動機として「少年や少女を描いたマンガを論じた本は数多くあるけれど、人口のボリュームゾーンであるはずのサラリーマンたちの生き様を描いたマンガを考察する本は、これまで不思議と存在しなかった」(あとがき)と語っている。サラリーマン漫画を貶すわけではないが、少年漫画、少女漫画を文学にたとえるなら、サラリーマン漫画は一種の風俗小説だ。源氏鶏太の小説がほとんど忘れ去られた存在となっているのと同じように、サラリーマン漫画は作品数の多さや売り上げに反して、顧みられることが非常に少ないジャンルだった。作家主義の文芸映画への評論が多い一方で、時代や世相を反映した娯楽映画への評論が少ないのと同じことである。

今までガラ空きだったサラリーマン漫画というジャンルへの考察を、小難しくもなく、マニアックな漫画論に陥ることもなく、ところどころでクスリと笑わせながら論を展開してポンと読者に差し出した真実一郎という人は、まったくもって“ただの人”ではない。プロフィールには現役サラリーマンと書いてあり、“匿名”感丸出しのペンネームだが、きっと彼こそが「特命」サラリーマンなんだと思う。(大山くまお)
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