新刊『爛れた闇の帝国』で世間を脅かしつつあるホラー作家・飴村行(レビューはコチラ)。 なんでそんなに粘膜でハードでグッチョネな小説を書けるの? というわけで前後編でインタビューを敢行しました!

――以前お会いしたのは8月でしたね。
なぜかインタビュー場所が埼玉県の大宮で。なんで大宮なのか伺ったら、10年前に住んでおられたという。
飴村 そうですね。派遣の形で、工場で働いていました。生活レベルはピラミッドの底辺ですよね。
――飴村さんが「ときたま大宮に帰ってくるんだ」と仰ってたんで、すごく怖かったんです。ライフル魔が故郷に帰って気に喰わないやつを撃ち殺す、みたいな話かと思って(笑)。
飴村 実は縁起かつぎなんですよ。大宮に氷川神社っていう神社があるんです。当時その近くに住んでて、毎朝お参りに行ってたんです。「幸せな家庭を持てますように」って。
――だはははは! 小市民だ。

飴村 素敵な奥さんが欲しかったんですよ……。それで縁起をかついで今でも小説を書く前と、書き上げた後に行くんです。
――8月にお参りされたというのは?
飴村 ちょうど行き詰まったときだったんです。実は7~8月で『爛れた闇の帝国』の原型を430枚書いてたんですけど、オチの部分以外は全部違う話だったんです。エセ青春小説というか、劣化版朝井リョウくんみたいな。
――劣化版朝井リョウ(笑)。完成版の『爛れた闇の帝国』は、記憶を回復させるためと称して憲兵が拘束された男の人体を切り刻んでいく拷問の話と、お母さんが高校の2歳上の先輩とのセックスに夢中で全然自分のことを振り向いてくれず、しかも学校を中退してしまって行き場もなくお先真っ暗という16歳ニートの話が並行していく、非常にエッジの立った設定の話です。元はそれが全然違っていたわけですね。
飴村 元版では、原因不明の病にかかった男とそれを治そうとするお医者さんの話だったんです。で、もう1つのパートは夏休みに入った高校生が中学時代に好きだった女の子と再会して、恋愛してエッチをするという。
――腑抜けな話ですねぇ(笑)。
飴村 これ誰が買うの? 犬も読まねえわ! っていうどうしようもない小説だったんですよ。
それを430枚書いちゃって、結局完成しなかったんですよ。で、これはイカンということで編集さんと相談して、2週間でプロットを考え直しました。
――どこをどう反省すると腑抜け小説が今の話になるんですか?
飴村 僕の高校時代は砂を囓むような三年間だったんですよ。男子校で、友達もいなくて、打ち込める何もなくて、家では空手やってる兄にぶん殴られて、お小遣いもろくに与えられない。オヤジがすげえ厳しくてバイト禁止だったんです。で、オヤジの財布から金盗んで、西村寿行の小説を買うか映画を観に行く。それが僕の精神を支えたんですよ。だから僕は高校に対して嫌悪感を持っているんです。僕の高校ってプールもなかったですから。
――え、なんで?
飴村 学校が貧乏でプール作れないんです。で、夏はみんなマラソンするんです。
――嫌な学校ですねぇー。

飴村 「少年院ってこんな感じだろうね。だけどこの少年院は買い食いできるからめっちゃ優しいよね」ってみんなで言ってた。
――(笑)。普通高校なんですよね?
飴村 一応は。非常に鬱屈とした三年間を送りまして、そのトラウマがある。それでなんていうんですかね。自分はこういう高校生活を送りたかったんだっていう願望が知らず知らずのうちに顕在化しまして、それがその甘っちょろい男女の恋愛に発展したわけです。エッチをしたいっていう非常に原始的な行為に走らせてしまったんです。
――『BOYS BE』みたいになっちゃったんですね(笑)
飴村 あれを読まれたら「ウォッカだと思ったらエビアンじゃねえか!」みたいな反応があったと思うんですよ。作家生命の終わりでした。書き直すことになって思い出したんですけど、高校時代に僕の友達の友達が、同級生のお母さんとつきあってたんですよ。
――あ、実話だったんですか!
飴村 そうなんです。
僕たちは「あいついいよなあ、毎日セックスできるんだぜ。天国じゃん」って、羨ましくてしょうがなかった(笑)。それを思い出して「あ、これだ」と。自分が高校生だった時代で、あの設定を使えば、自分らしさを取り戻せるんじゃないかと思ったんですよ。
――すごいなあ。飴村さん、つつくといろいろな話が出てきますね。
飴村 当時、なんでこんな辛い目に会うんだろうと思ってたことが役に立ってるんです。
――なるほど、それが高校生パートの学校をやめたい主人公の心情になったわけですね。
飴村 ただ、自分としてはあんな生やさしいもんじゃなかったですね。もう本当に、なんていうんですかね。学校で猟銃を乱射したいくらいの! 石井聰亙の映画みたいなことをやりたかったわけです、その当時。
――見ました? 石井聰亙。

飴村 最初に『爆裂都市』を見ました。それでものすごい興味をそそられまして。これが俺のやりたいことだと。本当に僕猟銃が欲しかったです。そういう感情は、表に出せないんですけどね。兄貴に殴られても恐くて殴り返せない。殴られた悔しさじゃなくて殴り返せなかった悔しさが未だにくすぶっているんですよね。恩人ではあるんですけどね、彼は。
――お父さんが亡くなられて実家に帰られたときに、お兄さんに懇々と説教をされたんですよね。もう一度大学に行ったつもりで4年間は小説家修業を死ぬ気でがんばれと。その間は生活の面倒を見るが、4年間経ったら兄弟の縁を切ると言われて、最後の年に『粘膜人間』を書き上げてなんとか間に合った。
飴村 兄はそういうことを平気でやるんです。
多分4年経ったら本当に殴られて家から引きずり出されたはずです。先のこと考えると恐くて何も出来ないんで、目先のことだけを考える術を得たんです。その4年間で。今あることに集中するってことが出来るようになって、それで生き残りました。
――以前おっしゃっていたのが『粘膜人間』のときには何一つ記憶がなくて、無我夢中で書いたと。
飴村 そうです。だから何であんな話になったのかもわからないです、自分。
――(笑)。だから2作目の『粘膜蜥蜴』が、本質的にはデビュー作であると。
飴村 僕はそう思ってます、はい。
――その『粘膜蜥蜴』は高く評価されました。日本推理作家協会賞も獲りましたしね。そして第3作が『粘膜兄弟』です。前2作とはちょっと違って、ポップな感じと笑いの多い作品でした。あれはあれでありだと思いますが……。
飴村 『粘膜蜥蜴』でストレスが溜まっちゃった時期に書いた作品で、とにかくハジケたいと思っていたんですよ。笑い取りてぇんだよ、と。
――なんでそっちに(笑)。
飴村 ちょっとはしゃぎ過ぎちゃったなという自戒の念があります。せっかく推理作家協会賞をいただいたんだし、まともなミステリーも書かなければいけないと。『爛れた闇の帝国』は仕切りなおして書きました。
――具体的には、何を反省点として盛り込んだわけでしょうか。
飴村 読み返してみると『粘膜兄弟』はオチが弱い。今回はそれを強く意識しまして、なんとか最後はキメようって思いましたね。
――オチのことはいつも意識されていますか?
飴村 自分がプロになってから、意識するようになったんですよ。僕は推理小説ってほとんど読んだことがなかったんですよ。小説といったら西村寿行さんのバイオレンスか、吉村昭さんの純文学や戦記物だったし。それらは別にオチを必要としない小説なんですよね。
――エンターテインメントの作家としてデビューされたことで、読者が自分に求めているものがオチだと考えるようになったということですか?
飴村 『粘膜蜥蜴』で変わりました。読み返してみると、自分が何気なく書いたことが伏線になっていて、それがすごい衝撃だったんですよね。ミステリーなんて絶対無理だと思っていたものが書けてしまった。だから、もうちょっと意識すればさらによくなるんじゃないかという気持ちもあるんです。
――なるほど。挑戦なんですね。たしかに『爛れた闇の帝国』は、最後の1ページがすごいインパクトでした。
飴村 ありがとうございます。映画でも、話は中だるみしていてもラストがビシッと決まると印象がガラッと変わりますよね。30点ぐらいだったものが70点くらいにはなる。自分の小説でもそれができるんじゃないかという風に思うんです。
――自分は日本推理作家協会賞を獲った作家だから、という自負もあるわけでしょうか?
飴村 あれもなんかいまだにいいのかなって思うんですけどね。
――いいのかなって言われても(笑)。謙虚ですね。
飴村 最初の『粘膜人間』が日本ホラー小説大賞を獲っていたら逆に駄目だったと思うんです。どれだけグロいものを見せられるか、っていう見世物小屋感覚がどんどん突き進んでわけわからなくなって、気づいたら大宮でホームレスやってたとかとんでもない方向に行ったと思うんですけど。
――(笑)。大賞じゃなくて二番手の長編賞だったことで、抑制が効いたと。
飴村 そうなんですよ。なんで大賞を獲れなかったのかな、と思ったときに話の整合性だと思ったんです。勢いだけじゃ長編賞が限界かと。
――なるほど。そうやって自己批判ができるのは作家として強いと思います。
飴村 2008年に賞をいただいて初めて角川書店に来たときに、ホラー文庫の編集長に無条件で4冊書いてくださいって言われたんですよ。そのときには「絶対無理だわ!」って胸の中で叫びました。もう出尽くしちゃっているのに、これ以上何を書けるんだと。『粘膜蜥蜴』のプロットは1ヵ月半かかったんですけど、その間ずっと追い詰められました。あれを越したときに心に、拳にタコができて痛みがないような感覚ができたんです。
――打たれ強くなったんですね。
飴村 そうですよ(笑)。地べたを這いずり回った10年間の経験もありますし。僕、故郷に帰ったとき、二度と東京来ることはないと思ってたんですよ。
――(笑)。夢破れて山河あり、みたいな心境ですか。
飴村 もう東北新幹線乗ることもない、このまま実家の片隅で腐って死んでいくもんだと。角川書店に呼ばれたのが、今でもはっきり覚えてますが、2008年5月20日でした。新幹線に乗ると、大宮を過ぎた後埼京線と並走するんです。そのときの車窓の風景が、僕が工場に行くとき毎朝見ていた風景だったんですよ。ロッテの屋内練習場が通り過ぎていって、それを見ているときに「うわー俺帰ってきた!」と思って体が震え出しました。うわうわやっちまったよ俺。いい意味でやっちまったって喜んだのは覚えてるんですよ。
――悪い意味でやっちまったんじゃなくてよかった(笑)。そうか、やっぱり十年間のタメが飴村さんは効いてますね。

後編に続く!(杉江松恋)
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