「精神障害者が処罰されないのはなぜか?」
佐藤直樹『なぜ日本人はとりあえず謝るのか』の第四章の最初の見出しだ。
近代刑法の答えは、こうである。

「しっかりとした判断に基づいて犯罪をおかした人だったら責任があるけど、精神障害者はそうするための理性とかないから」(←本書を読んで、ぼくが乱暴にまとめた)
これは納得できなーーい!
と考えて、著者の佐藤直樹は「精神障害者の刑事責任」の研究をはじめた。

本書『なぜ日本人はとりあえず謝るのか』は、日本独特の「世間」というものを、「ゆるし」と「はずし」という側面から考察している。

世間からはずされないために、日本人はとりあえず謝る。世間からゆるしてもらう。
とくに、犯罪をおかしたとき、この「ゆるし」と「はずし」が極端なかたちであらわれる。
“日本では年間一六四万人ほどが検察庁に受理されるが、じっさいに正式起訴されるのは一二万人とわずかその七%程度”であり、ほとんどが「ゆるし」てもらえる。
謝ることで、「まあ、ゆるしてやろうか」となるのだ。
たとえばホリエモン。“「きわめて異例の」懲役二年六カ月の実刑判決”となってしまったのは、謝罪しなかったからではないのか。「ゆるし」が発動されなかったのだ。

精神障害者が処罰されない理由を考察するために歴史をさかのぼる。
中世。

「不幸な運命が狂人を弁護する。狂人は自分の病気によってすでに十分罰せられている」というローマ法の原則がヨーロッパでは長く通用していた。
“つまり「まあ、ゆるしてやるか」ということである”
また、法の例外を作ることが、権力者の力の誇示として機能していたのではないかという説も紹介される。

ところが近代になって、この意味が変わってくる。
キリスト教の「告解」によって、内面が語られるようになる。こころのうちを語ることで、「個人(individual)」が成立したのだな。
前近代の連座責任から、近代的な個人責任へ「進化」した、と。
最初にらんぼうにまとめたように「しっかりとした判断のもと犯罪をおかした人」なんていうムリがある人間像だけが処罰対象となる。
そうなってくると、精神障害者は、理性や自由意思がないという理由で刑法上の「人間」からはずされる。

二〇世紀になると、処罰福祉主義が登場する。
犯罪行為ではなく、犯罪者を、科学的に分析し、矯正や治療すべきだという主義。
個別の事情を考慮するこの考え方は、世間の「ゆるし」の原理と親和性が高かったから、日本に受け入れられたのではないかと著者は指摘する。


少年法の変化を記した第五章の後半で、著者はブログの炎上についても、世間の「ゆるし」と「はずし」を軸に語る。
“直接なんの関係もないのに、メディアの報道やホームページをみて、あたかも「我がこと」のように考え、卑怯にも匿名で、いやがらせの手紙を出したり、無言電話をかけたり、メールを送ったり、ブログを炎上させたりする人たちが、かなり沢山いる”のは、“個人が存在せず、自他の区別がつきにくいため、同情と共感を生みやすい”という世間の作用であり、“当事者と自分との区別がつかなくなり、「迷惑をかけられた」と本気で思うように”なり、「はずし」をおこなうのだろう、と。

“日本の犯罪率の低さは、明らかに「世間」の「ゆるし」と「はずし」の原理が作動しているためである”が、同時にそれは抑圧でもある。同調圧力によって流されてしまうということでもある。
“「世間」と「世間」との「あいだ」を自由闊達に浮遊し、つねに「世間」のウチとソトとを往還し、「世間」に風穴を開ける”その突破口は、どこにあるのだろうか?

ぼく自身は、インターネットによるコミュニティが、そのひとつのキーになるんじゃないかと考えている。
なんか、世間ってもさー、いま醸し出されている世間って、特権的なメディア(テレビとか新聞とか雑誌)が、同調圧力に流されて同じような側面ばかり報道してるからじゃないかって思っちゃうんだよなー。(米光一成)
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