カバーをはがすと、コミックス本体の表紙にも漫画が描かれている。黒々と『デラシネマ』というタイトルが付されたそれは、この作品(本編のほうね)が生まれた様子を解説した漫画で、じつはここですでに、この作品の元ネタというか、お手本にした作品のタイトルが明かされている。
その作品では、志を同じくする2人の男が、政界と裏社会、それぞれでの頂点を目指してのし上がっていくのだ。このスタイルを応用して星野泰視が描いているのが、今回の作品『デラシネマ』である。
『デラシネマ』の舞台は、昭和28年の京都。日本で年間10億人の観客を動員し、映画が“娯楽の王様”と呼ばれていた時代、京都太秦(うずまさ)には時代劇を中心に撮影する映画会社が数多く集まっていた。本作は、そんな太秦にある日本映画株式会社、通称「日映」を舞台にして繰り広げられる。
日映にはふたりの新人がいた。一週間前に入社したばかりの大部屋俳優・宮藤武晴と、同じく一週間前に入社したフォース助監督・風間俊一郎だ。このふたりが、一流の映画スターと一流の映画監督になることを夢見て悪戦苦闘していく。
かつての映画撮影所というのは、とにかく古い慣習にしばられ、人間の上下関係がガッチリと固まった縦社会だった。
なぜそうなっているかといえば、すべては撮影を円滑に進めるためだ。最盛期の1950年代には、すべての映画会社を合わせて年間に合計500本以上もの映画が撮影されていた。これらのハードスケジュールを安全、かつ確実にこなしていくためには、映画の撮影はルーチンワーク化するのがいちばんいい。そこに下っ端の意見なんぞ採り入れている余裕はなかったのだ。
本作には日映の大スターとして市岡歌蔵という俳優が登場する(片岡千恵蔵あたりがモデルか?)。この歌蔵──周囲からは尊敬と畏怖を込めて“御大”と呼ばれている──の作品にセリフのない「素浪人D」みたいな役で出演することになった宮藤は、昔ながらの古臭い殺陣をさせられることに我慢がならず、台本を無視した独自の解釈で御大に斬り掛かろうとする。
ところが、調和を乱す者の存在にいち早く気がついた先輩役者に、宮藤はあっさりとブチのめされてしまう。撮影後、若き役者バカを個室に呼び出した御大は、こんなことを言う。
「今撮っとる『流浪剣』シリーズは年4本」
「『如来峠』3本 『地獄笠』2本」
「他に単発合わせて年15本のシャシンに出なきゃならん」
「──ということはな」
「それだけこの撮影所で年がら年中 朝から晩まで」
「皆 顔を突き合わせてシャシンを撮ってるということだ」
「中には自分の家族より長い時間 顔見とるスタッフもいるだろう」
「言わばワシらは家族以上の家族なんだ」
「……お前がやったことは 家族に対する裏切りだ」
片や、映画監督を目指して助監督(という名の雑用仕事)に明け暮れる風間も、リアルな絵作りのためにと、出来立てピカピカの石壁に勝手な“汚し”を入れてしまい、大道具係のボスで別名“鬼の棟梁”と呼ばれる鮫嶋を怒らせ、床に叩きつけられてしまう。
それでも、ふたりは映画に対する夢をあきらめない。昔ながらの芝居や歌舞伎の延長でしかなかった小奇麗な時代劇は、きっと廃れてくる。
もうひとつ、本作が読者の目を惹きつけている点として、その独特の「絵柄」にも触れておきたい。
星野泰視は、『20世紀少年』などで知られる浦沢直樹のアシスタント出身者だ。絵柄的にも明らかに影響は受けており、本作に登場する日映の笹木監督の顔つきなどは、師匠が描いたといっても納得してしまいそうなほど浦沢タッチがにじみ出ている。
けれど、浦沢の安定した画力にくらべれば、星野のデッサン力はどうにも覚束ない。彼の描く人物はところどころ顔がゆがんでいたり、あるいは最初からそういう造形の顔をした人物が出てきたりして、見ているこちらを不安な気持ちにさせるのだ。
とはいいながら、どちらの絵が印象に残るかといったら、まちがいなく星野の絵のほうだ。彼の出世作『哲也 ─雀聖と呼ばれた男─』を読んだことがあるだろうか。あの漫画の主人公である哲也の顔(その造形)は、一度見たら忘れられないはずだ。
『デラシネマ』で主役を張るふたり、宮藤武晴と風間俊一郎は、その点では目立って特徴のある顔つきはしていないが、それ以外の脇役にいい顔の役者たちが出てくるので見逃せない。
とくに、日映に所属している大部屋俳優267人のデータをすべて暗記しているという、演技課課長の眼力(めぢから)が素晴らしい。
(とみさわ昭仁)