ダンス、エンド、シティ、ハウス、ダイアリー、ハイスクール、サバイバル、ショーン、ドーン、奥ノ細道。
正解は、後ろに「オブ・ザ・デッド」を付けるとゾンビの映画かマンガか小説のタイトルになること。
主人公の安東丈二はゾンビ映画大好きな高校生で、クラスに馴染めずいつもひとりぼっち。本土から南に数百キロ離れたリゾート地、綾浪島で開催される夏期合宿に強引に連れてこられたけど、冷房の効いたセミナーハウスで『映画秘宝』のゾンビ映画特集号をめくっている。そこに響きわたる悲鳴。気がつくと動く屍体が孤島を埋め尽くしつつあった……!
映画「ゾンビランド」では小心な主人公が「念の為に二度撃ち」「他人と親しくならない」等のルールで「倒したと思って油断してやられる」「仲間割れでやられる」というゾンビ映画のお約束を潰しまくっていったけど、「オブザデッド・マニアックス」では主人公がゾンビ者なので逆に自分からお約束の展開に身を投じていく。だってそうじゃないと、ゾンビ映画で培ったシミュレーションが活きないからね! そして「ゾンビの本場といったら」とショッピングモールに行ったら、「あら、だって、ゾンビと言ったらショッピングモールじゃない」というもう一人のゾンビ者(黒髪の美少女!)が、既にバリケードで要塞を作り上げていたりする。みんな考えることは同じなのだ。
以降はこの二人を軸にゾンビ者の生態が描かれていく。たとえば、主人公が相手のゾンビ愛を確かめるために質問するシーン。
「い、一番好きなゾンビ映画は?」
「もちろん『DAWN OF THE DEAD』――でも試すにしては簡単すぎる質問じゃない?」
「――な、なら、一番、一番好きなバージョンは?」
「今度は難しい質問ね。軽く空いた時間に何度でも観たいのが軽快なアルジェント版、じっくり腰を据えるなら重厚な米国劇場公開版。ディレクターズカットも悪くないけれど、少し冗長だから最初に観るにはオススメできない。」(p150)
(※映画の「ゾンビ」は編集や音楽により3つのバージョンがあるのです)
「一番好きな」っていう質問の答えになってない! でもこれがゾンビ者の模範回答。いろんなケースを想定しないといけないから、一番は決められないのだ。あとマニアが集まるとたまに起きる小さな意見の食い違いから口論になるシーンもあって、ゾンビで意見が分かれるといえばやっぱり走るゾンビは許せるかどうか。「走るゾンビって、本当に、そんなふうに否定できるものかしら?」(p200)という黒髪の美少女と「あんなの、ただの暴徒じゃないか。どこがゾンビだ」(p203)という主人公が傍から見たらどうでもいい口論を延々と繰り広げる。これをゾンビに囲まれたショッピングモールでやってるところがバカバカしくて本当に素晴らしい。
ちなみに、そのモールでは危機に瀕している上に物資も限られているので、「働かざるもの食うべからず」がルール。働きに応じた厳しい階級制が敷かれていて、今までクラスで変わり者として敬遠されていた、工具に詳しい、料理が上手い、応急手当ができる各分野のマニアたちが技能を活かしてのし上がり、一方でこれまでクラスを支配していた空気を読むだけの主流派が下流に転落している。その中で主人公はゾンビの知識が評価されてナンバー2となり、今まで自分を蔑んできた連中を見返すばかりか尊敬さえ受けて、ついには金髪巨乳美少女の奴隷まで手に入れてしまう! だが、余分なことを考えてしまうせいで心の底から喜べない。これでほんとうにいいのか? 立場が入れ替わっただけで、構造自体は何も変わっていないんじゃないか? 映画を観ては「モールに集まるゾンビは消費社会の風刺で…」とか考えてしまう、ゾンビ者のサガだ。
それにしても、主人公は「人が人を蔑むシステムは嫌だ」みたいな理由でくよくよ悩んでたけど、ほんとうはもっとシンプルだったんじゃないかと思う。ゾンビ映画によく出てきては無残に引き裂かれて死んでいく、自分のことだけ考える「嫌な奴」になりたくなかっただけじゃないか。ゾンビみたいに何も考えずに生きるのも、ほんとうのゾンビになるのも、欲望丸出しで生きる奴にもなりたくない。ただそれを観ていたい。きっとゾンビ者って、そういうめんどくさい人々なんだと思う。男子高校生じゃなくても、ぼっちじゃなくても、老若男女のゾンビ者に二人の同志の行く末を見届けてほしい。(tk_zombie)