2004年の就任以来、去年までの7年間全てがAクラス。
<GDPは中国に追い越され、このままズルズルと落ちていきそうな日本を救うのは「死んでも1番になってやる」という「落合力」しかないのである>と断定するなど、テリー伊藤らしい強引な話法で展開される落合論。大好きな長嶋茂雄との比較など熱く語るテーマがある一方で、冷静な分析も多い。
解任報道があった22日、いくつかのニュース番組で中日ファンへのインタビューがされていたが、年配の方ほど「やっと辞めてくれたか」と語り、若い人ほど「えーなんで? せっかく強くしてくれたのに」と驚きや残念な表情を見せていたのが印象的だった。このことをテリー伊藤も以前から感じていたようで、<年配者には(落合)不支持者が多く、若い人たちに支持が増えているというのは、落合監督がプロ野球に新しい価値観を次々に持ち込んだことこと深いかかわりがあるのではないか>と説く。
本書全体を貫くのは「革命者」としての落合博満評だ。2000本安打を達成して名球会入りの資格を得たにもかかわらず、自ら断りを入れたことなどは古くからの野球ファンには許せない「革命者・落合」ならではのエピソードだが、監督・落合として実行した改革も数多い。
・キャンプ初日からの紅白戦
・現有戦力で戦うための躊躇のないコンバート
・1軍2軍を分けず、12球団イチ長い練習時間
・競争意識を高める「ブルペン革命」
などなど、常勝チームとなったドラゴンズの強さを理解する上でも興味深い。
だがこの本で特に印象的なのは、テリー伊藤自身を落合に重ねあわせて評価している点だ。
ロッテ時代の本拠地だった川崎球場と、テリー氏自身のオフィスが共通してもつ「汚さ・狭さ」から生まれる反骨心。
<俺たちのヒーローは、実は落合なんじゃないか。ミスターという太陽のヒーローばかり追い求めたけれど、目の前に、落合という等身大のヒーローがいたじゃないか>
テリー伊藤と落合博満。この2人に共通することは上記のようなマイナーな境遇出身であること、そして「人に嫌われることが怖くない強さ」を持っている点だろう。
落合監督の「語らなさ」は実は戦略でも何でもなく東北人的な「無口さ」に起因しているのではないか、と同じ東北出身の人間として思っていたことがある。必要なことは喋るけど、余計なことは語らない。自分からは積極的にはコメントしない… 他に例を挙げると民主党の小沢一郎氏もそうだ。でも、同じ東北出身でもなでしこジャパンの佐々木監督の様に雄弁な人もいる。だからこそ、落合博満=テリー伊藤説を読むと、人に嫌われることが怖くない強さ、周囲に流されない自分の価値基準こそが「オレ流」と呼ばれる頑さに繋がってくるのだ。
<群れず、はしゃがず、黙って信念を貫いていく。媚びず、言い訳せず、不気味なほど寡黙に勝負して、勝つ。そこには、古き良き日本人が持っていたパワーがある。
本書でこの記述を読んだとき、山際淳二氏が書いた『ナックルボールを風に』の中でロッテ時代の落合について語られていたエピソードを思い出した。
<どこへ行ったって一人前以上の仕事をしてみせるという自信のあらわれでもあるけれど、それだけじゃない。彼は、いつか、どこかで一度、自分を放り投げてしまったことがあるのではないか。どうだっていいのさ、と。だから、世間も自分も、野球をも、冷たく見つめているもう一つの目が彼自身の中に棲んでいる>
現役時代からスタンスや価値観がいっさいブレていないことが見えてくる。
選手であれば数字だけで評価されるが、監督となると数字はもちろん、立場的にさまざまな情報発信も求められる。現役時代に静かだった選手でも監督になると対戦チームへのブラフ的な意味も含めて多少雄弁になったりもするものだが、落合博満は相も変わらず「語らない」監督だった。だからこそ生まれてくる誤解や不満。監督・落合にとっての一番の不幸は、中日新聞という、情報発信が至上命題のマスコミが親会社だったことだろう。
レギュラーシーズンも残り20試合。現在2位につけるドラゴンズにはまだまだポストシーズンも含めて戦いが続き、日本一の可能性だって残っている。
<並の人間ならば弱音を吐きたくなる場面、追い込まれたときや勝ち目がなさそうに見える場面、そのときに落合が何を言って、そのあと、どんなことをして見せるかという点に注目していくと、落合の言葉は、強がりでもなければ負け惜しみでもないことに気づく>
シーズン中に解任通告され、まさに弱音を吐きたくなる今こそ、落合采配の最大にして最後の見せ場がやってくるのだから。
(オグマナオト)