まずはじめに、半年近くも前の「新刊」をご紹介することについてお詫び申し上げます。もっとも、半年前にはエキレビでレビューを書くなんて想像もしてなかったので、当時読んでいても書けなかったんだけどね。


しかし、なぜあえて今『罪火大戦ジャン・ゴーレ 1』をご紹介したいかというと、ちゃんと理由があって、発売直後に作者本人から献本してもらっていて、割とすぐ読み始めたにもかかわらず、半年近くかかってようやく最近読み終わったところだからです。
……。
「読むの遅っ!!」と思われた方も多いでしょう。
田中啓文という作家をご存知の方は「ダジャレ」か「グロ」あるいは「ダジャレとグロ」の人と認識されていることと思う。それはもちろん間違いではない。というか、極めて正しい認識ではある。しかし、『水霊』(角川ホラー文庫)や『蝿の王』(角川ホラー文庫)といった伝奇長編には顕著なのだが、実は田中啓文の一番の武器はストーリーテリングの才だ。読者を一気に引き込むとんでもない設定から、あれよあれよと意外な展開を繰り返して、読者の予想を一段も二段も越えたスペクタクルへと強引に持ち込む。そう、ダジャレとかグロとかちょっと置いといて、それ一本で素直に勝負したらすごくたくさんの読者に喜ばれるであろう武器……。
多くの作品に接した、身近な作家、読者たちがどれほど口にしたことだろう。
「あの最後のダジャレさえなければ傑作だったのに……」
そういう読者の言葉を散々聞かされたせいだろうか。本作で田中啓文が選んだ道はとんでもないものだった。


物語そのものは、いきなり大風呂敷を広げた設定で始まる。
地球上でこれまで存在したことのある全ての人間(有名人多数)が全員甦るという現象が起き、いよいよ「最後の審判」かとキリスト教の神の存在を信じるようになった人類。しかし、溢れかえった人口を収めるためには蟻の巣のような巨大な集合住宅に低所得層の人々を監禁するだけでなく、複数の魂で一つの肉体を共有する必要が生まれた。一方、太陽系外から襲来するエゾゲバロ・ログロ星人との星間戦争も長期化し、日に日に旗色は悪くなっていた――。
SF作家・田中啓文のお得意とする「ワイドスクリーン・バロック」感満載だ(注:筆者は「ワイドスクリーン・バロック」の正確な意味を理解していません)。彼のストーリーテリングの才を持ってすれば、手に汗握る波瀾万丈、驚天動地のSFを書くこともできただろう。
しかし、彼はそうしなかった。
一番の武器、「ストーリーテリング」を封印し、誰もが「なければよかったのに」と言う「ダジャレとグロ(グロいエロもあり)」のみで勝負をする。それが作者の選択だった(作者本人の反論は受けつけません)。
そしてそれが、本作を読むのに半年もかかった理由である。
とにかく数ページ読む間に、脱力するようなダジャレ、ギャグが何個も何個もちりばめられていて、それだけで疲れてしまい「今日はこのくらいにしとこう」と本を閉じてしまうのだ。
ストーリーテリング……というかストーリーはまあないに等しい。

凝りすぎていてよく理解できないキャラクター達が、なんだかよく分からない戦闘に巻き込まれてぐちゃぐちゃのドロドロの中でひどい目に遭う。多分そういう話。しかも終わってないしね。いや、もしかしたらこれはギャグを取り除いてしまえばいたって真っ当なSF戦争ものだったりもするのかもしれない。しかし余りにも過剰なギャグの前に、物語はほとんど無効化されていることは確かだ。
誤解する人もいるかもしれないが、これは「SFコメディ」とか「ユーモアSF」「スラップスティックSF」とかそういうものでさえない。「一ページに一回笑わせます」とかそういう本ではないのだ。
具体例を見てもらわないと分からないと思うのでいくつか引用しよう。
人間の魂を移植されたシロナガスクジラ(なぜか台詞の最後に「ウンコ」がつく)と主人公・桃屋ピンクが出会う場面。

「どうして人間の言葉をしゃべれるんですか」
「儂は、クジラであってクジラじゃないウンコ」
「え?」
「いよおーっ、便(べん)、便(べん)」
 クジラは突然、声をひと調子はりあげると、
「クジラのようでクジラでない(便便)、人間のようで人間でない(便便)、それはなにかとたずねたら、ああ、鯨人(げいにん)、鯨人、鯨人、鯨人……」

なぜかバカボンのパパのような口調のイエス・キリストの言葉。

「いや、私は同じことを何度でも言うのだ。きみはたしかにぼくを愛してるのだ。
聖イエスなのだ」

説明はしないので、分かる人だけ分かってください。一事が万事この調子だ。
ピンクが入隊した宇宙軍の上司の名前は「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク伍長」。もちろん曲名は知っているが、何の意味があるのか正直よく分からない。多分何かのダジャレが隠れているはずだ。地球に敵対する宇宙人たちには、ジョ・ユウルA星人、アデ・KK・グァックス人などがいるらしい。何か意味がありそうだが……ジョ・ユウルA星人? ジョユウルエー? ……女優霊かい!(今分かった)
〈人類圏〉最高会議議長の名前は「パライソ・サイ・クーダー」。これは有名な漫画のあのフレーズとライ・クーダーを引っかけているらしい。
エラモンド・マーパン軍曹率いる部隊にはアージャイン、タビノ、ネオス二等兵などがいるし、惑星ジュエルの基地司令官はプロゴル・ファーサル大尉、副司令官はクントリッハ少尉だそうだ。
……。
分かるだろうか。このような、何が潜んでいるか分からない固有名詞が出てくるたびに読者は立ち止まり、文字を並べ替え、もし何かを発見したとしても、そこに意味はあるのかと考えなければならない。
意味なんかないのに。これがどれほど読むスピードを落とさせるか、作者は考えたことがあるのだろうか。
にも関わらず田中啓文はこの作品をギャグで埋め尽くさなければ気が済まなかったようだ。作品テーマの一つが、キリスト教の冒涜であり、そのためにエロとグロで埋め尽くされているのは分からないでもない。しかし彼の場合、それをさらに意味のないギャグで破壊しなければならないという執念があるようだ。
田中啓文にとって、醜いもの、気持ちの悪いもの、淫らなもの、などと同じくらい、バカなもの、くだらないものは反キリスト的なものなのだろう。そうとなれば、読者としては、憤慨して投げ捨てるか、そうでなければ神ならぬ悪魔のバイブルとしてありがたく押し戴くしかないのだ。
これでいいのだ。
(我孫子武丸)
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