北の湖、原節子、水木しげる、野坂昭如……今年も年末にかけて各界の巨星の訃報が相次いだ。

12月16日に亡くなった安藤昇もまた間違いなく「巨星」の一つであろう。
しかし、安藤昇という人物がいったい何者なのか、ある世代から下の人々には、ほとんど知られていないかもしれない。

ある新聞記事には、「元『安藤組』組長、俳優の安藤昇さん死去」という見出しが打たれていた。ウィキペディアを見れば、「日本の元ヤクザ、俳優、小説家、歌手、プロデューサー」とある。
酒乱の三船敏郎を叩きのめし、石原裕次郎に詫びを入れさせた安藤昇という男
『映画俳優 安藤昇』(ワイズ出版映画文庫

元ヤクザで俳優。メディアのコンプライアンスが厳しい現在、ちょっとありえないような肩書きだが、実際、安藤昇は戦後史に残るヤクザの組長の一人であり、引退後は堂々たる映画スターとして活躍していた。けっして、チョイ役で“特別出演”していただけで俳優を名乗っていたわけではない。


ここでは、今年5月に刊行された山口猛『映画俳優 安藤昇』(ワイズ出版映画文庫/単行本は2002年刊行)を元に、“安藤昇伝説”をあらためてまとめてみたいと思う。

20代半ばで500人を率い、渋谷を席巻した男・安藤昇


まずは略歴を簡単におさらいしておこう。安藤昇は1926年(大正15年)生まれ。戦中は特攻隊に配属され、過酷な訓練を受ける。除隊後、法政大学予科に入学するが中退。在学中からヤクザと抗争を繰り返していた安藤は、仲間たちと愚連隊を結成し、1952年(昭和27年)には渋谷に東興業の事務所を開いた。これがいわゆる「安藤組」である。


安藤組は最盛期で500人を超えるほどの勢いを誇っており、幹部には漫画『グラップラー刃牙』の花山薫のモデルである喧嘩師・花形敬らが名を連ねていた。また、後にベストセラー作家となる安部譲二も末端の構成員として安藤組に出入りしていたという。

安藤組の幹部はすべて大学卒業、または中退者であり、刺青・指詰め・薬物を禁止する一方で、背広の着用を推奨するなど、当時としてはとてもファッショナブルな集団であり、若者を中心に大変な人気を博した。『映画俳優 安藤昇』の表紙を見ればわかるが、安藤昇自身も大変な凄みをたたえた二枚目である(撮影は荒木経惟)。

脚本家の石松愛弘は「安藤さんっていう人は、ある意味、僕らの青春時代のアイドルでした」と振り返っている。「渋谷のスターでしたからデパート勤めの女の子たちがしょっちゅう見に来ていました」というのだから、従来のヤクザとは一線を画した存在だったということがわかるだろう。


その後、安藤は実業家・横井英樹(ラッパー・ZEEBRAの祖父)を襲撃、殺人未遂罪で逮捕される。服役後、組員の一人が殺されたことをきっかけに安藤組の解散を決意、1964年(昭和39年)12月に「安藤組解散式」を行った。

酒乱の三船敏郎を叩きのめし、石原裕次郎に詫びを入れさせる


日本映画界最大の労働争議・東宝争議をきっかけに映画関係者と親しくなった安藤はある日、映画界の大スター・三船敏郎と飲みに行くことになるが、早々にベロンベロンになっていた三船が何の理由もなく、初対面の安藤の顔をバチーンと殴ってきた。

頭に来た安藤は思い切り三船を蹴り飛ばし、そのまま殴り続けて、半殺しの目にあわせてしまった。道で気絶している三船を残して安藤は帰ったというが、ケガのせいで当時三船が撮影していた映画『宮本武蔵』は1週間撮影が延期になってしまったという。なお、この映画は完成後、アカデミー賞外国映画賞を受賞した。

また、東興業(安藤組)は人気スターを集めた興行も手がけていた。
あるとき、森繁久彌、小林桂樹ら人気スターが30人以上勢ぞろいした公演を行ったが、石原裕次郎だけは多忙を理由に断ってきた。すると、安藤組の若い衆が撮影所におしかけて撮影の邪魔をするようになり、結局、裕次郎を発掘したプロデューサーの水の江瀧子が安藤に詫びを入れてきた。裕次郎は安藤組が解散するまで、コンサートを行えなかったという。

ただ、三船にせよ、裕次郎にせよ、事態が収拾した後は、顔を合わせても軽く挨拶をして終わらせていたというのだから、安藤もずいぶんさっぱりしたものである。

映画デビュー作で原作・主演、しかも大ヒット


安藤組解散後、全財産を失った安藤のもとに自身の手記『激動』の映画化の話が持ち込まれる。しかも、主演してくれというのだから大胆なオファーである。役者経験などまったくない安藤は断ったが、目の前に積まれた現金の魅力には抗えず、結局引き受けることになる。
自分自身を演じるわけだから「仕方ないか」という思いもあったそうだ。

脚本づくりにも参加して完成した松竹映画『血と掟』(65年)は大ヒット。その年の松竹の配給収入1位を記録した。安藤昇はほぼ出づっぱりでアクションシーンも披露。当時の映画雑誌は「なんといってもホンモノの強味」と表現している。ダーティかつクールな“時の人”が映画に初主演した話題性が大ヒットにつながった。


気をよくした松竹は、2000万円で安藤昇と1年間の専属契約を結ぶ。当時の2000万円といえば現在なら2億円以上、まさに破格の待遇だった。

菅原文太の面倒を見て、東映に移籍させる


『仁義なき戦い』シリーズ、『トラック野郎』シリーズなどに主演、日本を代表する映画俳優の一人として知られる菅原文太だが、デビューした新東宝が倒産後、移籍した松竹で脇役俳優としてくすぶっている時期が続いていた。

華々しいデビューを飾り、松竹で1年間に9本の映画に出演した安藤昇だが、菅原文太は9本のうち4本に脇役として出演している。当時、暇だった菅原は、安藤が経営していた青山のレストランに毎日のように入り浸っていたという。飲食代は安藤が支払っていた。改名の相談を受けたが、思いとどまるよう説得したこともあったそうだ。

1967年(昭和42年)、安藤昇は松竹から東映に移籍する。当時の映画界には五社協定という他社への移籍どころか出演さえ認めない協定があったのだが、安藤昇に関しては例外中の例外。「そんなこと知るか」の一言でやすやすと突破することができた。

安藤が東映に移籍するのを見て、われもと手を上げたのが弟分の菅原文太だった。安藤は菅原を東映のプロデューサーに紹介、渋る松竹を説得するのに半年以上を要したが、菅原の東映移籍が実現した。東映で菅原は本領を発揮するのだが、安藤昇の存在なくして菅原文太のその後の大活躍はなかったと断言できる。

高倉健の向こうを張る


当時の大スターといえば、言わずと知れた高倉健だ。東映移籍後も主演作を連発してきた安藤昇だが、『網走番外地 吹雪の斗争』(67年)でついに高倉健と共演を果たす。安藤は高倉健と最後まで対峙するライバル役で、まさに二枚看板だったわけだが、安藤は監督の石井輝男とケンカして途中降板、ストーリーも大幅に変わってしまった。その後、『新網走番外地 嵐呼ぶ知床岬』(71年)など数多くの作品で共演しているが、お互いに言葉をかわしたことはほとんどなかったという。

一流の監督陣、一流の脇役陣を従える


映画会社を股にかけて数多くの作品に主演、あるいは客演してきた安藤昇だが、監督陣も一流だった。松竹時代には、『砂の器』の野村芳太郎、『嵐を呼ぶ男』の井上梅次、『日本侠客伝』シリーズのマキノ雅弘らが安藤映画を監督した。なかでも『真田風雲録』などで名匠と讃えられる加藤泰とは3作でコンビを組み、安藤自身ももっとも尊敬する監督として加藤の名を挙げている。

東映時代は、『トラック野郎』の鈴木則文、『仁義なき戦い』の深作欣二、『十三人の刺客』の工藤栄一、『冬の華』の降旗康男、『鬼龍院花子の生涯』の五社英雄、『新幹線大爆破』の佐藤純彌らが安藤映画のメガホンをとった。いずれ劣らぬ一流揃いの監督陣である。

脇役としては、菅原文太、デビュー直後の藤岡弘、伊丹一三(十三)らに始まり、長門裕之、津川雅彦、山城新伍、近藤正臣、千葉真一、渡瀬恒彦、藤竜也、若山富三郎、丹波哲郎らが安藤昇主演映画に出演している。当時のスターの一人、鶴田浩二の作品や、主演スターとなってからの菅原文太の作品への客演も多い。『無宿(やどなし)』(74年)では勝新太郎とも共演している。

『男はつらいよ』の原案は安藤昇が考えた!


ご存知、山田洋次監督、渥美清主演による国民的人気シリーズ『男はつらいよ』。実はその原案を考えたのは安藤昇だった。山田洋次は、安藤主演の松竹作品『望郷と掟』(66年)に助監督としてついていたが、安藤は「何となく」山田のことが気に入っており、自身の企画の監督として推薦したり、アイデアのプロットを渡して脚本にしてほしいと頼んだりしたのだという。

そのときのアイデアが、「ヤクザが市民社会の中に入っていって、騒動と笑いを引き起こす」というヤクザ喜劇だった。一ヶ月後、山田洋次は「書けません」と断ったが、しばらくしてフジテレビでドラマ版『男はつらいよ』が始まった。フーテンの寅次郎はテキ屋であり、いわゆるヤクザの一種である。プロットを盗用されたと感じた安藤は怒ったが、表沙汰にはしていなかったという。

「山田洋次に会ったら、あいつを締め上げなければいけないところだ」と安藤は語っているが、一方で「俺のアイデアを取った不届きな奴だが、才能はあるよ」とも賞賛もしている。その後、特に揉めたという話はない。よかった。

口で「バーン、バーン」というのが嫌で俳優引退


安藤昇は、俳優デビューしてから約12年で一線を退く。その動機として、銀座でのロケなどでピストルを撃つリハーサルの際、「バーン、バーン」と口で言うのが嫌になった、という逸話がよく知られている。銀座は知り合いが多く、恥ずかしくて仕方なかったらしい。

だが、実際は俳優業に飽きたというのが本音だろう。そもそも演技をすることにまったく関心がなかったのだから、それも仕方あるまい。俳優業の後半からは不動産事業に本腰を入れており、事業欲も旺盛だったが、映画の主題歌も作詞・作曲して歌ってしまい、はては「防災マスク」の特許をとった発明家でもあったのだから、まったく多才な人物である。

最後の主演作品となったのが、『安藤昇のわが逃亡とSEXの記録』(76年)だ。何度も自分自身を演じ続けてきたが、最後は横井英樹狙撃事件の後の逃亡劇を描いた作品である。いきずりの女たちとセックスを繰り返し、最後はパトカーの中でマスターベーションをしながら「天皇陛下になったような気持ちだよ」と言い放つアナーキーな作品だった。

映画俳優・安藤昇の魅力とは?


『映画俳優 安藤昇』の著者・山口猛は、安藤がこれほどまでに活躍できたのは「元ヤクザの親分」の看板があっただけではなく、安藤自身に幾多の修羅場をくぐってきた凄み、色気、気品があったからだと分析している。

安藤昇の頬には、ヤクザ時代に負った深い傷跡がある。観客は安藤のたたずまいに「死の匂い」を感じ取っていた。ヤクザ映画というフィクションの中に、立っているだけでひりひりするような死の匂いを放つ安藤が放り込まれたことによって、異化作用を起こしていたというのが山口の見立てである。

インタビューするときの安藤の受け答えはいつだって「優雅」だったと山口は書いている。一方、2015年に行われた文庫用のインタビューで安藤は、2004年に逝去した山口のことを惜しみ、「もう少しビールを飲ませてあげればよかった」と何度も繰り返していた。山口が若い頃、映画の助監督として働いていたときに接した映画スター・安藤昇は、若いスタッフにも気を遣うやさしさを持っていた。20代半ばで500人を率いる大人物の魅力とでもいうのだろうか。

「役者なんていうものは、いい加減な商売だから、ヤクザと一緒だね。字だって一字しか違わない、ほとんど一緒だよ」

『映画俳優 安藤昇』の中にある安藤昇の言葉である。特攻隊で死の淵を経験した安藤にとって、ヤクザも映画俳優も同じで、ちょっとスリリングな暇つぶしだったのだろう。

安藤昇主演の映画はDVDなどで見ることができるが、彼が歌ったシングル曲「男が死んでいく時に」を聴くことで、彼の持つ世界観が少しわかると思う。『映画俳優 安藤昇』の表紙を見つめながら、ぜひ聴いてみてほしい。
(大山くまお)