そんな書き出しの手紙が毎日小学生新聞(以下、毎小)の編集部に届けられた。
2011年3月11日に東日本大震災が発生してから3週間が過ぎようとしていた日のことである。
手紙の主は東京都内に住む小学6年生の「ゆうだい君」(仮名)だ。毎小2011年3月27日の「ニュースの窓」欄に、元毎日新聞記者・論説委員の経済ジャーナリスト、北村龍行が「東電は人々のことを考えているか」という題名の寄稿を行った。東日本大震災以降に東京電力が露呈させた非常時における対応能力のなさ、不祥事を隠蔽する体質を批判した文章である。北村はその記事を、
――そんな会社に危険もある原子力発電や、生活に欠かせない電気の供給をまかせていたことが、本当はとても危険なことだったのかもしれない」
という文章で結んでいる。「ゆうだい君」はこの記事を読み、毎小の編集部宛の手紙を書いたのである。
『「僕のお父さんは東電の社員です」 小中学生たちの白熱議論! 3・11と働くことの意味』は、その手紙が発端となって毎小で始まった、子供たちの紙上議論を記録した本である。
小学6年生の「ゆうだい君」は、自分の父親を擁護するためだけに手紙を書いたわけではない。北村が「東電に原子力発電や電気供給をまかせていたことは危険なことだったのかもしれない」と疑義を呈したことに異議を唱え、それは無責任な発言だと「ゆうだい君」は言う。
――原子力発電所を造ったのは誰でしょうか。もちろん、東京電力です。では、原子力発電所を造るきっかけをつくったのは誰でしょう。
つまり社会全体の総意として原子力発電所は造られた、そのことを無視して東京電力だけを批判するのは無責任な態度ではないか、と「ゆうだい君」は問いかけているのだ。そして「僕は、東電を過保護しすぎるのかもしれません。なので、こういう事態こそ、みんなで話し合ってきめるべきなのです。そうすれば、なにかいい案が生まれてくるはずです」と提案している。
この記事は2011年5月18日の毎小に掲載され、大きな反響を呼んだ。翌日以降、さまざまな年齢の読者から毎小編集部宛に手紙が届けられるようになったのだ。本書は手紙の一部、あるいはすべてを(その点について本文中に明記されていないのはいただけない)収めた記録集である。「小学生からの手紙」「中学生からの手紙」「高校生・大学生からの手紙」「おとなからの手紙」といった具合に、手紙の書き手の年齢層で分けて章立てがされている。手紙はほとんどすべてが「ゆうだい君」へ宛てられた上で、自分の意見を開陳するものである。投稿者の意見に対する再反論といった形の広がりがないように見えるのは、編集部の意図であるのか、もともとそういう手紙がこなかったのかは不明だ(再び書くが、そうした全貌が見えない編集姿勢には不満を感じる)。
本書を読んだ人は、ここに掲載されている手紙の書き手たちの誰もが、真摯な思考を重ねた上で文章をつづっていることに驚かされるはずだ。もちろん年齢相応の知識・論理的思考に基づいて書かれたものだから、小学生の書いた文章には小学生なりの限界がある。だが、真剣な態度でできる限りのことを書こうとした文章である。手紙のいくつかを、ランダムに引用してみよう(発信者の名前は実名があってもイニシャル表記とする)
――私は、ゆうだい君の「皆が無責任だと思う」という意見に反対です。なぜなら、福島に、原子力発電所を置いても良いと言ったのは、福島県の行政です。けれど、管理をしているのは、福島県の行政ではありません。東京電力です。そう考えると、悪いと思うのは、東京電力です。それに、原子力発電所の事故のせいで、家に帰れない人達もいます。東京電力の人達や政府の皆さんは、ちゃんと、毎日家に帰れて居ます。それなのに、東京電力の人達が悪くないという、ゆうだい君の意見は、おかしいと思います。だから私は、今の意見のように東京電力が悪いと考えます。
けれど、福島県の行政も、原発だの放射線だのと、もうなってしまったことは仕方がないので、これから先の未来をどうするかを考えたほうが良いと思います。(後略。H・S 小学4年生)
――ぼくはゆうだい君の手紙のほとんどが正しいと思います。しかし「原発を造らなければらなかったのは地球温暖化を防ぐため」というのはおかしいと思います。たしかに原発なら二酸化炭素は出ません。しかし、原発のタービン建屋の中では燃料ぼうをくぐらせた熱湯を海水で冷やし、海水をそのまま海にもどしています。これではただ海をあたためているだけだというのがぼくの意見です。(S・J 小学5年生)
――東電含め原発にたずさわる人は悪くない。ぼくは東電などの原発事故で主に責任がある人ばかりを責めるのはよくないと思う。なぜなら僕はせいいっぱいやっているように見えました。それにゆうだい君の言う通り責任は皆にあるはずのものをたまたま関係した人を責めて何だかみにくいような感じがします。(後略 K・K 小学6年生)
論調がさまざまで、単純な賛成反対だけの意見ではないことを読み取れるはずだ。
議論百出の後に、映像作家・ジャーナリストの森達也が寄稿した「僕たちのあやまちを知ったあなたたちへのお願い」という文章が掲載されている。人間が社会集団を形成して生活していること、その中で責任を負うというのはどういうことなのかということ、集団が個に対して行ってきた中には目をそむけたくなるような残虐な行為もあるということ。社会と個のありようについて、非常にわかりやすい文章で綴られている。言うまでもなくこれは「正解」でも「結論」でもない。「ゆうだい君」の問題提起をきっかけに自分の頭で考えることを始めた読者が、さらに先に進むために有効な、大人からの「フォロー」なのである。ただし森はこの中で、この国に生きる大人が1つだけ子供たちに対して言わなければいけないことをはっきりと言っている。以下のくだりである。
――だから僕たち大人は、まずはあなたたち子どもに謝らなくてはならない。
本当にごめんなさい。
こんな狭い国土で五四基の原発など、あまりに多すぎると発言するべきだった。
本書を読んで感じるものがあった読者は、小説家・福井晴敏の『震災後』をぜひ読んでもらいたい。主人公の中学生の息子は、震災後に自分が無力であることに怯え、自分だけが生き残ってしまったことに罪悪感を覚え、心を暗く鎖していく。その息子に向け、そして同じように不安に震える子供たちの世代に向け、大人が何をできるか、何をしなくてはならないかについて主人公は考えるのだ。
少しでも前を向いて生きるために、子供たちは今必死に考えている。しかし乗り越えるべきものは大きい。力を持たない彼らは、ややもすれば打ち砕かれそうになってしまうことだろう。
だから今、何をしなくてはいけないのか。二冊の本を読んで私もまた考えている。
(杉江松恋)