『生きる悪知恵 正しくないけど役に立つ60のヒント』は、その西原理恵子が著した人生相談の本だ。これが実に期待を裏切らない内容であった。
たとえば14番目、「結婚して5年。妻がぶくぶく太っていきます」という相談に対してである。「以前はお姫様だっこも軽々できた」「小柄で華奢なところが可愛かった」妻が、結婚5年目にして太り続けている、「少しはやせる方向に持っていきたい」という34歳・男・製造に対してこう答えている。
「(前略)どうしても奥さんにやせてほしいんだったら、とにかく子育てを手伝ってください。
「女房を美しくするのは経済力」!
西原の回答は常にこんな具合だ。たとえば共同生活を送っているような場合なら、どちらかがどちらかに頼るような関係は不健全、自活できる程度の経済力をともに持ち、一緒に暮らしを支えていかなければいけないと説く。「お互いがお金を稼がなきゃいけない」のだ。
西原理恵子の中核にはいつも世界に対する不安感がある。それは絶望的なほどの無力感を自分自身に対して抱いているということでもある。
彼女の『上京ものがたり』は、東海林さだお『ショージ君の青春記』(漫画ではなくエッセイだが)、カラスヤサトシ『おのぼり物語』などと並ぶ、漫画家が自身の不遇時代を振り返った名作だ。モラトリアムの時間が刻一刻と減っていくことに焦りを募らせる若者の内面を冷静に観察したのが『青春記』であり、『おのぼり物語』のカラスヤは顔に笑みを貼りつかせた青年が、自身に対してあまりにも冷淡な世間への募らせていくさまを成功譚の背景で描いている。
本書には西原の友人がそれぞれ質問を投じている個所がある。そのうちの1人が「作家生活も二十四年目に入ったのですが、どうもこのところ創作意欲が低下気味」という綾辻行人さん(51歳・男・小説家)だ。変わらず「貪欲な創作活動を続けて」いられる「モチベーション維持の秘訣を教えてください」という相談者に西原はこう答えている。
「借金があること(一億四千万円)」
わはは。1億4千万円分を返すか首を取られるか、という熾烈な争いこそが、西原理恵子を前に前にと進ませているというのだ。「ここまで強くはなれないよ」と言う人には、「じゃあ、座して首を持っていかれるのを待つのか」と問いかけたい。世間の無情をぼやくよりも自分の無力を嘆くという気持ちのある方は、ぜひ『生きる悪知恵』を読んでみてもらいたいのである。
以下は長めの余談である。
「金のないのは首がないのと一緒」という状態を美談として構築し、演じる者の技量によっては芸術と称賛されるまでに至った大衆娯楽の作品がある。古典落語の「芝浜」だ。酒に溺れて勤労意欲を失った亭主を妻が騙し、再び生活を再建するまでを描いた人情噺だ。軽い噺だった「芝浜」を改作したのは3代目桂三木助(故人)で、作家の安藤鶴夫などの意見を採りいれて現在の形にまでこしらえた。昨年亡くなった立川談志の十八番はこの噺だということになっており追悼番組などでもたびたびその映像が流された。たしかに生前から談志のこの噺に対するファンの期待度は高く、暮れの風物詩さながらに扱われていたほどである。忠臣蔵に第九に談志の「芝浜」か。
しかし「それほどの噺か」と古典落語幻想も談志幻想もない人は音源を聴いて言うのではないだろうか。酒ばかり飲んで仕事をしない亭主をあくまで立てる女房の、どこがそんなに素敵なのか。たしかに談志の口演は絶品だと思うのだが(従来の演者がやれば賢しげに見えるところを見事に改良している)、それでも疑問は残る。
そう思っていたら思わぬ人物が芝浜否定論を語っているのを目にした。
弓子 私は、あまり好きではありません。女性からすれば『芝浜』は面白くないですよ。勝手な亭主に内助の功……あの『芝浜』を聞いて、男が「いや〜泣いちゃったよ」なんて言っているのもよくわからない。あれが理想の夫婦像なのかな。
この問いに対して志らくは「演る側からすれば、涙を誘う演目のほうが楽」、「芝浜」を演じるのは客に対する「サービス精神」だったはずだと認めている。「勝手な亭主に内助の功」の話を喜ぶ客がたくさんいる、という問題に深く切り込むには至っていないのだが、事実上「芝浜」の倫理感が古い、時代遅れのものだということを認めた形だ。
落語は基本的に男性優位の考え方が支配的だった時代に出来上がったもので、それを現代にあてはめることには根本的な無理がある。現代とは、夫婦は「お互いがお金を稼がなきゃいけない」と言う西原理恵子が多くの人からの支持を集め、「芝浜」の女房が女性からは忌避される時代なのだ。気持ちだけでは夫婦の間柄は成立しない。
にもかかわらず談志の「芝浜」を好きなファンが大勢いるというのが、落語という表現形式のおもしろい点だ。古典落語の何割かは過去の遺物となってしまった倫理観に依存して成立している。それを現代のものとして観客に聴かせられる演者がいるという事実は、落語が「物語」ではなく、演者の「演技」のほうに比重がある芸能だということの証明にもなっている。
立川談志は、演者としてこの事実を熟知していた。だからこそ、過去の遺物である落語の物語を自身の言葉と演技で再構成することに熱心だったのである。古臭い芝浜は、談志が新風を吹き込むのにちょうどいい器であった(実際に年を追うごとに演じ方が変化していった)。いわば壮大な実験のための道具であったのに、死んでからはそうした部分が一切無視されて「人情噺の名手」のようにマスメディアで報じられている。さぞかし泉下で無念な思いをしているのではあるまいか。
談志であれば「芝浜」よりも「鼠穴」のほうがよほどいい。これは肉親の間柄でも金の問題は別だ、という身も蓋もない事実を描いた噺である。兄に裏切られて泣く弟、それを憎々しげに罵倒する兄という構図を見る(聴く)たびに、私は心の中のどこかで居ずまいを正されるような思いがする。そういう噺も古典落語にはあるのだ。
おしまいにもう一度『生きる悪知恵』の話に戻る。私が強く共感を覚えたのは「いつまでたっても親と仲よくできません」という48歳・男・自営からの相談に対する西原の回答だ。質問者に対し西原は「私も自分の母親があんまり好きじゃないです」と切り出して以下のように語っている。全文を紹介すべきなのだが余裕がない。極端な要約であることをお断りしておく。
「でも、親と子は別の人間だし、別の人生なんですよ。仲よくできないものはしょうがない。(中略)親孝行もいいけど、そのへんちょっとはき違えて、優先順位を間違ってる人が多いんですよ。家族のことを考えたら、姥捨て山に捨てなければいけないときがあるんです。(中略)一番大事なのは、家族と仕事でしょう。私、その家族に親は入ってないから。邪魔なものは親でも何でも捨てちゃわないと、自分が難破しちゃうから。鴨ちゃんのときも(注:前夫の鴨志田穣。故人)、「これ捨てないとダメだ」と思ったもん。肉親だからって我慢してると、結局、そのイライラが子供に向かって、子供に同じ因子を継がすっていう負の連鎖になる。それが一番恐ろしいから自分の代で切るべきですね」
この言葉には「芝浜」の甘えはなく「鼠穴」の厳しさがある。そしてさらに偽悪的な態度によっては隠し切れない優しさもある。「金がないのは首がないのと一緒」と言い切った人の本当の優しい顔はこういうところに現れているのだ。『生きる悪知恵』は、ちっとも悪知恵の本なんかじゃないよ。
※ここでは扱いきれなかった落語の「古さ」と「新しさ」の相克の問題については、明日、放送作家の松本尚久さんをお招きしてトークライブで考えていきたいと思います。ご関心のある方はぜひこちらを参考にご来場ください。
(杉江松恋)