そのことに徹した小説が、伊集院静が2011年に発表した長編『いねむり先生』だ。伊集院を思わせる主人公・サブローが、知人に紹介されて会った「いねむり先生」に惹かれ、やがてその人柄に心酔していくさまを描いた作品である。作家は、その筆力のすべてを注入して「先生」を造形している。いや、モデルになった人物の魅力を損なわないために、全身を神経にしながら自分の行った描写を吟味しているのだろう。
その「いねむり先生」のモデルは、色川武大、またの名を阿佐田哲也といった作家だ。ナルコレプシーという睡眠障害を伴う持病があり、「いねむり」の異名はそこからきている。1989年没。享年60。一般には阿佐田名義の『麻雀放浪記』でもよく知られているが、色川名義では自身の中にあるものを見つめるような純文学作品を書いた。私がその名を聞いて思い浮かべるのは、読売文学賞を受賞した『狂人日記』のような孤独で、しかし優しさに満ちた作品世界だ。
伊集院静が色川武大に出会ったのは晩年のことである。妻であった夏目雅子を病で喪い、彼は人生に絶望していた。
その『いねむり先生』がコミカライズされた(1・2巻が2月に同時発売、3巻も今夏発売予定)。作画担当は能條純一である。『月下の棋士』など代表作は多いが、1作を挙げるとすればやはり『哭きの竜』ではないだろうか。この麻雀劇画が「別冊近代麻雀」に連載されたとき、当時の読者は大きな衝撃を受けた。他にはない特徴が『哭きの竜』にはあったからである。
主人公の竜は、チーやポンで必ず「鳴く」という奇抜な打ち筋の雀士だ。彼は圧倒的な運の持ち主であり、破壊的な戦法に出ても必ず勝ってしまう。そのさまを見た男たちは、竜を打ち負かすか、もしくは自陣に引き入れることで自らも強運をつかもうとするのである。『哭きの竜』という作品のおもしろさはそこにある。物語の中心になるのは竜自身ではなく、彼を狙う男たちなのである(手塚治虫『火の鳥』の主人公が火の鳥ではないのと同じ理屈ですね)。
「竜よ、お前の運をわしにくれや。会長にやってくれや〜!!」(甲斐正三)
『哭きの竜』という作品の美しさは、ストップモーションを多用したその描画の演出法もさることながら、自らの運を切り開こうとしてなりふり構わず闘い、果てていく男たちの無骨な顔を描いた点にあった。男の片思いの物語だったと言ってもいい。
そこで『いねむり先生』だ。本作ではぜひ、能條純一描く「いねむり先生」の表情に注目していただきたい。漫画の「先生」はモデルになった作家そのままではなく、能條のキャラクターである(名前も「阿佐田徹也」と1字変えてある)。目を見開いたときの表情などは凄みがあり、『哭きの竜』に登場したヤクザ、夜叉の刺青を持つ男・石川喬を彷彿とさせる。だがその鋭い顔はほんの一瞬で、すぐ柔和な笑みに変わる。
作品のもう1つのテーマは、サブローの抱える心の闇である。彼の心の中には、絶えず呼び声がしている。もちろん呼んでいるのは亡き妻だ。その懐かしい声と、今目の前にいる「先生」との間で彼は揺れ続ける。決して他人とは共有できない孤独が描かれた作品である。
小説には印象的な場面がある。ある晩、サブローは夜の神楽坂に「先生」を置き去りにしてしまう。
ーー境内の隅の吹き溜りのような場所で身体を固くするようにして何かを見つめている。表情はわからないが、先生の目は前方の闇をじっと見つめていた。
先生の頭上で悲鳴のような音を発している欅の枝と葉。さらにその上空で瞬き続ける星々。降り注ぐ天体の瞬きと騒々しい季節風の中で、先生は身をかたくして何かを見つめていた。
その姿には安堵も平穏もないように思えた。ただ寂寥だけがひろがっていた。(中略)
あれほど人から慕われ、ユーモアにあふれた人が、こんなふうに吹き溜りの中で、ただの石塊のように闇の中に置き去りにされていた……。
この場面を能條がどう描いたは、ぜひ漫画にあたって確認していただきたい。小説と漫画の協業によって実現された世界は実に美しい。
(杉江松恋)