『学歴・競争・人生』(吉川徹・中村高康/日本図書センター)を読んで、一番はっとさせられたのが「重学歴」という問題提起だ(第5章 人生の選択肢)。
重くて大きいモノが喜ばれていた時代は終わって、軽くて小さくて持ち運びが便利なものが好まれる時代になってきた。
にもかかわらず、大卒という重学歴だけを良いものと考えすぎてはいないか。
著者は、学生に質問する。
“「高卒就職して、地元の優良企業で真面目に働き、給料やボーナスをもらい始めているもう一人の自分を、大学の授業料を払い、就職先も未定の今のあなたは、この先のいつごろ追い抜けそうですか?」”
大卒学歴のリスクとデメリットを考えてみよう、ということだ。
就職してすぐの時点では、大卒就職1年目のあなたは、高卒入社5年目のあなたより給料は少ないだろう。
この差を追い抜くのは、“今の若い人たちだと、それは三〇歳を過ぎてからになるのは間違いない”。
それ以降は、大卒のほうが年間所得が多いので、ずっと働いていればトータルで大卒のほうが収入が多いことになる。
だが、もし結婚して辞めたり、フリーになったりしたらどうだろうか。学歴では“投資した分を回収できないままで終わってしまうことになりかねない”。
さらに、いまや大学に誰でも入れる時代になってきた。不合格者が少なすぎて合否ボーダライン偏差値が算出困難な「Fランク」大学の出現に象徴されるように「大学の大衆化」が進んだ(第3章 受験競争の現在)。
同時に、大卒であれば誰でも就職内定を得られるわけではなくなった。
大学受験をがんばって、いい大学に行けば、あとは生涯安心だという時代は終わってしまった。
“大卒学歴を得るためにお金と時間を「投資」しても、その見返りが不確実な時代”になってしまったのだ。
“大卒層と非大卒層がぼほ半々の学歴分断状況が待ち構えている社会”という指摘にも驚いた(第4章 大人への道)。
ほぼ半々であるという実態を説明すると、「自分の同世代の大卒(高卒)層が、これだけしかいないとは知らなかった」と大勢の人が驚くらしい。ぼくも、驚いた。
“大卒層と非大卒層の人生(生活)が相互に交わることが少なく、お互いのことをよく知らない”という指摘が、胸に重くのしかかる。
もうひとつ興味深いデータが示される。
「今の日本では、大学を卒業していないと社会に出てから不自由な思いをすると思いますか」という質問。
これに対して、「中立・否定」(つまり大卒じゃなくてもいいよ)のスタンスの人が64.5%もいるのだ。さらにそのなかには、大学を出ていない人がほぼ三分の二もいる。
昔のドラマには「おれは高卒だからせめて息子にはいい大学に行ってもらわなきゃ」と言う親父がよく出ていた。その親父像も、もはや消えつつある。
“大卒学歴が決して万人に強く望まれているわけではない”のだ。
ところが受け入れる側の大人がしっかり変わったかというと、そうでもない。
実益(機能的価値)を度外視して、文化的なシンボルや、安易な指標として大学の銘柄に過剰に価値を見出す傾向は残っている。
問題は、“教育や政策にかかわる人たちが、ほとんど一人残らず大卒層であるために、知らず知らずのうちに、「大卒イコール理想の学歴」とみな”すことだと著者は指摘する。
就職のチャンスや条件の違いなど、社会の側はまだまだ多くの問題を抱えており、受け入れの態勢ができているとはいいがたい。
大卒以外の軽学歴(軽快な学歴!)が、学生にとって、ひとつの輝かしい選択肢としてしっかりと存在できるように変わっていくことが必要だ。
『学歴・競争・人生』は、学歴と競争について、他にもさまざまな面からわかりやすく考えている本だ。
どうして受験競争がなくならないのか(第1章 受験競争がなくならない理由)、競争はどのように維持されるのか(第2章 学校に埋め込まれた競争)、受験競争への熱心な参加者は誰か(第3章 受験競争の現在)、若者が将来像を描くのが困難になったのは何故か(第4章 大人への道)、成人年齢を18歳に引き下げるほうがよいのではないか(第4章 大人への道)、学歴分断社会の問題点(第5章 人生の選択肢)など。
ぜひ、読んでみてほしい。(米光一成)