後閑さんがバーテンダーをスタートしたのは日本。その後、彼の実力を買ったお客様に声を掛けられ、23歳のときに単身でニューヨークへ渡る。最初にアプローチしたのは、ニューヨーク屈指のバーとして有名な「エンジェルズ・シェア」。だが実績も知名度もなく、英語も流暢に話せない若者を受け入れてくれるはずもなく、しばらくは、日本食レストランのバーで働きながらチャンスを伺っていた。
しかし運命とは不思議なもの。その日本食店の常連客に、エンジェルズ・シェアで後閑さんのアプローチを断った人がいた。その人に真価を見出され、1年後、“オファー”という形で、憧れの「エンジェルズ・シェア」にヘッドハンティング。2007年より、後閑さんはマネージャー兼ヘッドバーテンダーを務めることになった。
ここで後閑さんは、世界に挑戦する切符を2回掴む。それが、「バカルディ世界レガシーカクテルコンペ」である。世界を代表するカクテルコンペは、出場の権利も簡単には与えられない。
抹茶とバカルディラムを茶碗に入れ、茶筅で立てた上にシェリーを加えたカクテル。「これは、それまでの自分の集大成でした」と後閑さんは言う祖母の影響で学んだ茶道、渡米前にスペシャリティを身につけようとしてシェリーの専門店で学んだ知識――自分のなかに蓄えた全てが、オリジナリティとして結実した。結果予選を通過し、アメリカ代表として26カ国から集う精鋭のなかの一人に残った。
本大会は2012年2月、カリブ海にあるプエルトリコで行われた。審査ではプレゼンテーション、カクテル作り、後片付けまでがトータルで評価される。持ち時間は10分間。「自分は無名だから、プレゼンで足がかりを作るしかない」、そう考えた後閑さんは、ここに至るまでの思いを語った。
夢を叶えるために、6年半の間一度も帰国していないこと。東日本大震災のときも帰国できなかったこと。
しかし、タイムオーバーが非情にも迫っていた。「どんな結果になろうとも、最後までやり切ろう」、後閑さんはそう決意し、毅然とした態度のまま、カクテルのサーブを続けた。そのとき、会場が“ワッ”と湧いた。ライバルの選手たちが、ルール違反を恐れずステージに上がり、後片付けを手伝い始めたのだ。本大会に向けて、彼らとは1週間寝食を共にし、競い合ってきた。その彼らが、友人の熱い思いに突き動かされたのである。終わってみれば、15秒の余裕を残しての終了。その優勝に、だれも異論はなかった。
現在は、レストランのコンサルティングや、世界各国のツアーなどで、忙しい日々を送る後閑さん。
もちろん海外で働くことは、一筋縄ではいかない。異国から来た“日本人”であるがために、認められない時期もあったという。しかし、偏見に負けない強さを持ち、日本人としての誇りを失わないことが、海外で成功するために必要だと後閑さんは言う。
「時期は人それぞれ。海外には、行きたいと思ったときに、行くのが一番いい」。
思いの強さが人を動かし、海外で高みを極めた。その男の正直な実感だ。