タモリについては最近、小説家の樋口毅宏が、その名も『タモリ論』という本を出して話題になっています(以下、原則として人名の敬称は略します)。
さて、『タモリ論』の樋口は、ビートたけしとくらべて《タモリさんについての本ってほんとになくて、語りようがないんですよね》と、「cakes」のインタビューで語っていました。しかしこの比較はいかにもタモさんに分が悪い。日本の笑芸人でたけしほど論じられている人はいないだろうし、本人の著作も多い。お笑いだけでなく、映画監督としても注目されている分、関連書が多いのは当然です。
■あらかじめ伝説として語られた“天才出現”
実際には、たけしほどではないにしても、タモリもまた1970年代の鮮烈なデビュー以来、常に語られる対象であったことはまちがいありません。芸能界デビューにいたるまでの経緯も、多くの人たちによって書かれていますが、ほとんど時を置かずして伝説のように語られているのが愉快です。
たとえば、ジャズピアニストの山下洋輔は、『ピアノ弾き翔んだ』(1978年)などで、タモリとの出会いをくわしく記しています。それによれば、1972年頃、九州公演中にホテルの一室で、山下とトリオを組んでいた中村誠一・森山威男らがデタラメな落語を披露したり騒いでいると、突如として謎の男が闖入し一緒に芸を始めたといいます。山下たちをさんざん笑わせたあと、朝方になって帰ろうとする男に、中村が名前を訊ねたところ、「モリタです」との返事。
これだけ読むと、なぜタモリがこのときホテルにいたのかまったくの謎ですが、じつはこのとき山下トリオは渡辺貞夫グループと帯同しており、タモリは渡辺のマネージャーと旧知だったことから、くだんのホテルに居合わせたのでした。その事実を、「突然の闖入者にしたほうが面白いから」と、山下らは意図的に隠したのです(平岡正明『タモリだよ!』)。
ともあれ、九州に天才がいるとの噂は、山下たちを介して、彼の行きつけの新宿のバー「ジャックの豆の木」の常連客のあいだにじわじわと広がっていきます。やがてバーのママが、その噂の真偽をたしかめたいと言い出したことから、みんなで金を出し合って博多から東京までの新幹線代を捻出した、という話もまた伝説と化しています。
こうして上京を果たしたタモリはそのうちに、やはり「ジャックの豆の木」の常連だったマンガ家・赤塚不二夫の家に居候することになります。初めてのテレビ出演も、赤塚が親しい仲間を集合させた「赤塚不二夫の特集」という生放送でした(1975年8月)。このとき、赤塚を新郎役に、タモリが牧師役で結婚式のコントを演じたそうです。
これをたまたま見ていた黒柳徹子が、あまりにもおかしくて、テレビ局に電話をして赤塚を呼び出すと、「あの牧師さんは、スゴイ!」と伝えました。これに対し赤塚は《あれがいつも話していた九州のモリタだよ。面白かった? 伝えるよ。喜ぶよ。
■仲間から“盗んだ”ネタでブレイク
このように、タモリのデビュー前後の話を拾いあげていくと本当にキリがありません。素人同然のままテレビに出演し、ほとんど下積みもすることなくブレイクしたというのは、まさにシンデレラストーリーです。
ところで初期のタモリの「密室芸」に関して私が注目したいのは、その代表的なネタのほとんどが仲間たちからの借り物であったということです。たとえば「ハナモゲラ語」という意味不明の日本語は、もともと山下洋輔トリオの仲間内で1970年前後に、「メチャクチャ言葉」「ハチャハチャ語」などと呼んですでに使われていたものだといいます(筒井康隆ほか『定本ハナモゲラの研究』)。あるいは歌人・劇作家の寺山修司のモノマネは、寺山と同じく青森出身のフォークシンガーで俳優の三上寛が得意としたもの、「エビフリャー」に代表される名古屋差別ネタは、愛知出身の写真家・浅井慎平が提供したものだそうです。
しかし、いずれもタモリの持ちネタと思われるようになったのはなぜでしょう? 作家の小林信彦はこれについて、《〈状況設定のうまさ〉である》と説明しています(『笑学百科』)。すなわち、誰かのモノマネなら、いかにもその人が言いそうなことを誇張して言うことこそ、タモリの芸の奥義だったというわけです。
小林の指摘は、同時期にタレントの永六輔が《タモリの芸ってうまいと思ったこと一度もないんです。(中略)ただ、見る目と気のつき方の細かさみたいなもの、これはア然としますね》と書いているのとも通じるでしょう(「広告批評」1981年6月号)。
他人の持ちネタを盗みつつ才能を開花させたタモリ。評論家の平岡正明はその点に注目して、《タモリは場の芸人である。場とは、主体と客体の変容するエネルギーの容器である》と、その著書『タモリだよ!』(1981年)のなかで定義しました。
初期タモリを総合的に論じたものとして、本書の右に出るものはないでしょう。このなかで平岡は、タモリと同じく福岡出身の作家・夢野久作との関連性を見出してみたり、タモリが終戦1週間目に誕生したこと、家族が旧満州からの引揚者であることなどから、その生い立ちと昭和史をからめてみたりと、時間と空間を超えたイリュージョンともいうべき筆致で、タモリを論じています。
■タモリを愛した作家・嫌った作家
タモリ以前に、笑いの世界から出てきた人間で、ここまで多くの文化人たちから盛んに論じられた人はいなかったかもしれません。それは、肉体を使うことが主流だった日本の笑いの世界に、タモリが頭脳的な笑いを持ちこんだことの何よりの証しといえるでしょう。
タモリを世に送り出したのは、山下洋輔にしても赤塚不二夫にしてもサブカルチャー寄りの人たちでした。彼ら以外にもたとえば、のちに「今夜は最高!」「笑っていいとも!」の制作に携わり、タモリのブレーン的存在となる高平哲郎は、もともとは出版界の出身です。コラムニストの植草甚一が1979年に亡くなったとき、植草の収集していた2000枚ものジャズやロックのレコードを、タモリが一括して引き取ったという話が知られていますが、これも植草とかかわりの深かった高平を介してでした。
文壇とも近い場所にいました。おそらく周囲にいた人たちが、タモリの芸を一目見せようと作家たちに会わせたりもしたのはないでしょうか。
この頃の交友関係について、ときどきタモリがフッと思い出したように語るのが私は大好きです。たとえば、安部公房がプログレッシブ・ロックバンドのピンク・フロイドの大ファンで、ちょっとでも悪口を言おうものなら怒ったという話を、「いいとも」で披露していた記憶があります。
また、吉行淳之介をはじめ多くの作家たちがひいきにしていた銀座の文壇バー「まり花」に顔を出し、なかでも星新一からかわいがられたという話も残っています。星はタモリのハナモゲラ語と寺山修司などの思想モノマネがお気に入りで、あるパーティで本物の寺山のあいさつが終わるや、「なーんだ、タモリのほうがうめえや」と大声で冷やかしたこともあったとか(最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』)。
もちろん、一方ではタモリを嫌う作家もいた。森茉莉はその代表格で、テレビ番組評を中心としたコラム『ドッキリチャンネル』で、《タモリという役者は髪真黒なのをぴたりと二つに分け、額から顔から全身ぬるぬるに光っていて私は見るや否やマジコンを手に取るや遅しとチャンネルを変えようと必死になる》などと、生理的な嫌悪をあらわにしています。
■「いちばん嫌いなタレント」から「いちばん好きなタレント」へ
もっとも、森のタモリへの嫌悪は、ある時期まで大半の女性に共通したものだったようです。その証拠に、1981年にタモリが登場した千趣会の新聞広告には、《1年前、女性たちがいちばん嫌い、に挙げた人。なのに、ことしはいちばん好きな人、です》というキャッチコピーが掲げられていました。
ちょうどこの年、日本テレビでタモリがホストを務めるトーク番組「今夜は最高!」が放送開始、先行したNHKの「テレビファソラシド」、あるいは朝日新聞のCMで筑紫哲也と出演したりしたこの頃を境に、一般女性からも人気を集めるようになってきたというわけです。
それ以前、一般のファンは、ラジオの「オールナイトニッポン」やテレビの「空飛ぶモンティ・パイソン」などでタモリを知った10代から大学生までの若い世代が大半でした。
いとうは早大在学中に「タモリライフ研究会」なるサークルに所属し、《タモリさんを誉め称えつつ、自分たちで笑いを作らなければどうする》と奮闘していたといいます(「クイック・ジャパン」vol.61)。他方、のちに“女タモリ”の異名をとった清水は、高校時代にクラスで教師から好きなタレントを聞かれた際、ほかの生徒がベイシティ・ローラーズなどと言っているなか、一人だけタモリと答えたところ、「う~ん、清水は東京に行ったら、悪い男にだまされる」と言われたといいます。大人たちの目には、デビューまもないタモリはいかにも怪しく映ったのでしょう。
それが、時代がタモリに追いついたのか、1980年代に入る頃にはタモリはお茶の間の人気者となっていました。こうした状況の変化に本人は、《オレ自身、何も変わっていないのだけれど、すごく変わったようにいわれてね、こっちも戸惑っているんだよ》と語っているのですが(『糸井重里対談集 話せばわかるか』)。一方で、かつてタモリをもてはやした人たちのあいだでは、「タモリはアクがなくなった、つまらなくなった、毒を失った」とささやかれ始めます。
タモリが毒を失ったという声は、1982年10月に「笑っていいとも!」が始まったことでさらに多くの人たちからあがることになりました。「いいとも」開始以後、タモリがどう語られるようになったのか、それについてはまた次回、くわしく見ていきたいと思います。
では一応、お約束ということで……
あしたも読んでくれるかな?
(近藤正高)
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