前編に引き続き、ある特定の年を時代の転換点ととらえた“年代本”を紹介するこの企画。後編では、1972年、1985年、1989年、1995年を振り返った4冊をとりあげたい。


■坪内祐三『一九七二 「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』(2003年/文庫版、2006年)
文芸評論家の坪内祐三(1958年生まれ)は、大学で学生相手に戦後史を教えるなかで、高度成長期の急激な時代の変化のピークは1968年であり、そして変化が完了するのは1972年だと思い至ったという。しかしこの歴史観は、1972年以降に生まれた世代にはほとんど通じない。本書は、そんな若い世代との対話の試みとして書いたのだと、坪内は説明する。

本書では、連合赤軍事件や田中角栄政権の発足などといった社会的事件とともに、「ぴあ」の創刊、矢沢永吉らのロックバンド・キャロルのデビューなどサブカルチャー的事象が、一つの連なりをもって論じられている。しかも、それらが、著者である坪内(1972年当時は14歳)の体験を交えて語られているところに、本書(というか坪内の著書全般にいえることだが)の大きな特徴がある。

たとえば、旧日本兵・横井庄一の27年ぶりの帰還をとりあげた回と、同じく旧日本兵の奥崎謙三をとりあげた回のあいだに、東京・渋谷の大盛堂書店の地下にあったミリタリーショップの思い出を持ってくるあたりが、この本の面白いところだ。創刊当時の「ぴあ」についての記述も、その3号目から購読していたという著者だけあって、当時読んでいた者でしかわからない同誌の画期性みたいなものがよく伝わってくる。

本書が出たのと前後して、大塚英志『「おたく」の精神史』(2004年)や宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』(2006年)など、坪内と同世代(1950年代後半生まれ)の論者が、自分たちの生きてきた時代を考察した本があいついで刊行された。いずれも自らの体験を踏まえて論じているという点で共通する。

■吉崎達彦『1985年』(2005年)
1980年代というとまるまるバブル期とくくられがちだが、それはあくまで後半のこと。その半ばにあたる1985年はむしろ、9月に調印されたプラザ合意により円高が急速に進んだせいで、景気は落ち込んでいた。本書の著者・吉崎達彦(1960年生まれ)はエコノミストだけに、当時の日本経済の状況とその後の変化について的確に分析している。


本書の第2章「経済~いまだ眩しき『午後2時の太陽』」では、1985年当時の統計データから、バブルがなぜ生まれ、そして崩壊後、長らく経済の低迷が続いているのか、ひとつの答えを示している。要約すれば次のような感じだ。

日本経済は製造業を中心に、コツコツ働いて輸出をして、外貨を貯めるというスタイルをとってきた。1985年のプラザ合意は、こうして貯めたカネを消費に回し、内需主導型の経済へと移行するチャンスであったが、そうはならなかった。その原因としては、国内には適当な投資先がなく、対外投資するにも円高の進行による為替差損の恐れが強かったことがあげられる。結局、プラザ合意後、政府による金融緩和で市場にカネが流れ込むと、配当利回りを無視した株式投資、あるいは条件の悪い不動産投資が行なわれ、バブルが発生した。そしてその崩壊後には、不良債権や金融不安などの構造問題が生じてしまったというわけだ。もしこのとき、市場に流れ込んだ大量の資金が、新産業を興すことなどに回されていたのなら、もっと違う展開があったはずである。

本書では、専門的な話もわかりやすく解説されているうえに、とりあげられる話題も政治・経済から世相・風俗まで豊富だ。同じく第2章では、日本経済新聞に1985年からほぼ10年ごとに連載された渡辺淳一の小説『化身』『失楽園』『愛の流刑地』から、日本経済の変化を見てとっているのがユニークである。

なお、本書が刊行された2005年には、1985年に起きたできごとを思い起こさせるできごとがあいついだ。たとえば2005年には愛知万博が、1985年には科学万博つくば'85がそれぞれ開催されているし、JR西日本の福知山線脱線事故は、1985年の日航ジャンボ機墜落の大参事を思い出させた。
さらに2005年当時の首相・小泉純一郎が推し進めた郵政民営化は、1985年の政治の焦点であった国鉄民営化を想起させた(翌86年の衆参ダブル選挙での自民党の圧勝もまた、2005年の郵政選挙での自民圧勝と重なる)。それだけに、この本が出たときはとてもタイムリーだと感じた記憶がある。

■橋本治『'89』(1990年/文庫版・上下巻、1994年)
1989年は、日本では昭和が終わり平成へと元号が変わるとともに、バブルの絶頂にあった年であり、世界史的には40年あまり続いてきた東西冷戦が終結した年である。それだけに、この年についてもまた、竹内修司『1989年』や保阪正康『1989年の因果』(いずれも2001年)など多くの本が出ている。

作家の橋本治(1948年生まれ)による『'89』は、今回の記事でとりあげたほかの本とはちょっと趣きが異なる。ほかの本が、ある年についてあとの時代から検証しているのに対して、本書は当の1989年にリアルタイムで書かれた時評をまとめたものだからだ。しかし橋本は、《自分が生きているっていう理由だけで、自分の時代をそんなにも特殊化しない方がいいと思う。我々は相変わらず、おんなじ人間の造った歴史の上に生きているだけなんだから》と書いているように、時評でも歴史的な視点を忘れない。私は折に触れてこの本を開くが、読むたびに新たな発見があるのも、そのためだろう。

たとえば、1989年には昭和天皇のほか、手塚治虫や美空ひばり、松下幸之助など各界を象徴するような人物があいついで亡くなったが、橋本はそれを偶然とはとらず、「世代交代」のためである、と書く。

《人間というものも、「世代交代」を必須とする「生物」の一種なのであって、そういう「世代交代」が、ある時期明らかに起こってしまったということになると、やっぱり「人間も世代交代を必須とする生物の一種であるということを忘れてはいけないよ」ということになるのであろうとしか言えない》

私はここ数年、年末にその一年間の物故者を振り返る記事を書いているのだけれども(今年も「ボーダーを超えた2013年の物故者たち」というタイトルで執筆した)、そこで気づいたのは、曲がり角に来ている分野ほど、その世界で功績を残した人が立て続けに亡くなっているという事実だ。一例をあげれば、テレビが地上デジタル放送へと完全移行した2011年には、氏家齊一郎、横澤彪、和田勉、大野靖子、市川森一などテレビ業界に大きな足跡を残した人たちが死去している。


1989年が特別だったのは、そういうことが一つの分野のみならず多岐にわたって起こったということだ。橋本はそのことを、《ともかく今年は全員になんらかで関係あるんだから、“関係ない”なんてこと言うんじゃねェよ》というふうに表現している。すなわち、昭和天皇の崩御は自分たちに関係のないと思った戦後世代にも、手塚治虫の死は「子供時代の終わり」として受けとめられたし、また、マンガを読まないという一派に対しては、美空ひばりの死があり、彼・彼女たちとも「関係ない」人のためには、松田優作や開高健の死去というダメ押しもあった、というのだ。だからといって、橋本はそこで感傷的になったりはしない。

《時代は急速に変わって行き、来年もきっとまた多くの人達が死んで行くだろう。だからこそ僕達は忙しい。「死んでもいいよ、その後はちゃんと埋めるから」――生者がそう言わなかったら、死んで行く方はたまらないだろう》

この一文を、歴史というものは、日々私たちの営みによってつくられるのだというメッセージと読み取ることも可能だろう。

■速水健朗『1995年』(2013年)
最後はやはりこの本をとりあげておきたい。ツイッターで本書の感想を追ったところ、読者が自分自身の1995年を振り返っているのがよく目についた。ただ、当の本書では、そうした自分語りは極力抑えられている印象を受ける。そのなかにあって唯一の例外が、「第4章 テクノロジー」で、マイクロソフトのウィンドウズ95発売について論じたくだりだ。

ウィンドウズ95の発売に際しては、秋葉原のいくつかの店舗では深夜0時ちょうどに発売し、祭りの様相を呈した。
著者の速水(1973年生まれ)は、その瞬間にパソコン誌の新人記者として立ち会ったという。この日の秋葉原について、《何かが始まろうとしているという予感で満ちていた》と振り返る著者は、《自分の人生で、そのように感じることができたのはこの時だけだ》とまで書いている。

このくだりからは、いま、歴史に立ち会う困難さみたいなものを感じる。情報技術の発達により、あらゆるできごとをリアルタイムで追うことが可能となった。とはいえ、それを追う人間はあくまで傍観者にすぎず、誰もが歴史の当事者になったとはいいがたい。むしろ、接する情報が多ければ多いほど、私たちは当事者意識から遠ざかっていっているという気さえする。

これまで、かつての学生運動やサブカルチャーについて、ある種の“特権階級”が自分の体験を語り、それがそのまま歴史になっていくということがよく見られた。しかし、大学進学率の上昇や、ネットによる情報格差の縮小などさまざまな理由から、いまやそうした特権階級はほとんど消失したといってよい。そのなかにあって、いかに歴史はつくられていくのか、また語られるべきなのか? 『1995年』のあとがきには、東日本大震災の起こった2011年もまた転機の年として記憶される、とある。2011年についてもいずれ誰かが振り返り、歴史として検証する日が来るはずだが、果たしてそれはどんなスタイルをとるのだろうか。
(近藤正高)
編集部おすすめ