なんの話かというと、ミシェル・ウエルベックの長篇近未来小説『服従』(2015→大塚桃訳、佐藤優解説、河出書房新社)の話だ。

フランスの大統領選挙では、ざっくり言うと「左派」と「右派」との大統領が、わりと交互に誕生してきたという傾向がある。
いつも上位2候補の一騎打ちで「第2回投票」にもつれこむ。その2候補はたいてい「左」vs.「右」となる。
ただ2002年のときは違った。ひょんなことから「右」vs.「極右」になった。
「右」のジャック・シラクvs.「極右」のジャン=マリー・ル・ペン。結果は「右」の勝ちだった。
「極右」と「イスラーム」、どっちを推す?
ウエルベック『服従』の主人公兼語り手の〈ぼく〉フランソワは、大学で教鞭を執る文学研究者。
パリ第4大学(いわゆる「ソルボンヌ」)で博士号を取得し、パリ第3大学(ヌーヴェル・ソルボンヌ)に奉職している。
自然主義文学→デカダン文学→カトリック文学とスタンスを変えながら19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した小説家ユイスマンスの研究者だ。
ユイスマンスの小説で日本でもよく読まれているのは『さかしま』(1884→澁澤龍彦訳、河出文庫)、『彼方』(1891→田辺貞之助訳、創元推理文庫)、『腐爛の華 スヒーダムの聖女リドヴィナ』(1906→田辺貞之助訳、国書刊行会)、『大伽藍 神秘と崇厳の聖堂讃歌』(1898→出口裕弘抄訳、平凡社ライブラリー)など。

『服従』の作中で、2022年のフランス大統領選挙の選択肢は、おなじみ「左」vs.「右」でもなければ、2002年の「右」vs.「極右」でもない。
片や「国民戦線」第2代党首マリーヌ・ル・ペン。
こなた「イスラーム同胞党」(架空)の党首モアメド・ベン・アッベス。
「極右」vs.「穏健イスラーム」である。
ウエルベックの小説では、自由は不可能
これはフランスの知識人にとって、いわゆる「究極の選択」だと思う。
いかにノンポリのフランソワであっても、極右に投票するわけにはいかないだろう。
といって、イスラーム政権のもとで学問の自由を守りとおすことができるだろうか?
という問いはそのまま、「では現在のフランス(や日本)で、学問の自由はどれくらい保証されているのか?」という問いになって帰ってくる。
そして、そもそもウエルベックのすべての小説では自由なんて不可能だし、自由を尊重することが最大の愚行だったりする。
だから、ここから、どんな葛藤や闘争が生まれてくるだろうか、と思っていると、そういう予想はほぼハズしてしまう。
投票の日、フランス国内各地の投票所で騒乱が発生するが、その情報は断片的にしかフランソワのもとに届かない。
フランソワは語り手だから、読者のもとにも、切れ切れの情報しか届かないのだ。
読者を待っているのは、ハラハラドキドキではない。
このあとに続くのは、絶望ですらない。
その「ハラハラドキドキではない」「絶望ですらない」というあたりに、ほとほと感心してしまう。
「ウエルベック、振り切れてるなあ…」
吹っ切れてるのではなくて、針が振り切れてるのだ。