旅に出たい! 知らない川に裸足でじゃぶじゃぶ入りたい!
池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》(河出書房新社)第18回(第2期第6回)配本、第12巻『松尾芭蕉 与謝蕪村 小林一茶 とくとく歌仙』。
江戸俳諧の3大スターのベスト盤に、平成期の連句を加えたコンピレイション的な1冊。

この本は冒頭の『おくのほそ道』から順に読んでいくのもいいけれど、もうひとつお勧めのやりかたとして、本巻の最後に収録された『とくとく歌仙』(1991)から読み始めるというのはどうだろうか。
頭の柔らかさが問われるゲームの感想戦
『とくとく歌仙』は、小説家の丸谷才一と詩人の大岡信が、ゲストに小説家の井上ひさしと高橋治を迎えて巻いた連句の記録である。

連句とは、575に77を続け、その77にまた575をつけて、連想ゲーム式というか、作中の季節を徐々に動かしながら絵巻物式に575と77を交互に並べていくゲームである。
通常、3人以上でやることが多い。集団創作だ。
メンバーの1人が発句(575)を披露する。発句だけは前もって準備できる。これは独立して鑑賞すると「俳句」となる。これに「脇」(77)を別の人がつけ、つぎの人がその「脇」に「第三」(575)を……という具合に進む。
そのなかでも「歌仙」は、36句で完結するという比較的コンパクトなスケールで、何句目にはこの内容の句を作らなければならない、などといったルールが厳しく、きわめてゲーム性が高い。
『とくとく歌仙』から本巻に収録された丸谷と大岡の対談「歌仙早わかり」は、このゲームのルールや楽しみかた、難しさを、わかりやすく解説してくれている。
もうひとつ『とくとく歌仙』からは、高橋治をゲストに迎えた歌仙の感想戦「加賀暖簾の卷」が収録されている。
連句は直前の句から連想を飛躍させて君を作るけれど、直前の句はさらにその前の句から連想して作られているから、うっかりすると、雰囲気や内容や使う言葉が2つ前の句とかぶってしまいそうになる。
前の前の句がそっち系統の語を使っているから、そっち方面ではもう作ることができない、というわけ。
頭の柔らかさが問われるゲームならではの難しさ、楽しさを、3人のプレーヤーたち自身が語っている。囲碁とか将棋の感想戦のようなもので、プレーヤーたちの頭脳のなかでどのような戦いがおこなわれていたのかがよくわかる。
俳諧のインターテクスチュアリティ
抄録された『とくとく歌仙』を読んだあとで、こんどは芭蕉と門人たちが巻いた連句と、松浦寿輝によるその評釈を読んでみよう。
連句集『冬の日』(1684)から「「狂句こがらしの」の巻」(feat.荷兮・野水・重五・杜国・正平)、『猿蓑』(1691)から「「鳶の羽も」の巻」(feat.去来・凡兆・史邦)という、ふたつの歴史的歌仙セッションが収録されている。

なんとなく遠く感じていた古典が、「自分と友人たちとのカラオケ」ほど身近にはならないにしても、マイルス・デイヴィスのブルーノート時代のセッション」くらいには、ライヴ感を伴ってよみがえってきた。
そうなったら今度は、本書に収録された江戸俳諧の3人のスターそれぞれの、ベスト発句集を読んでみる。
松浦寿輝選・釈の芭蕉百句にせよ、辻原登が蕪村の句を選・釈した「夜半亭饗宴〔シムポシオン〕」にせよ、読んでいて思うのは、場所や蕪村が先人の和歌や漢詩や謡曲を引用し、パロディし、ほのめかしているという作りかただ。
芭蕉や蕪村が想定していた読者は、古典の元ネタをおさえている教養人だったということになる。
例えば蕪村の自筆句帳(1775)に書かれた
実ざくらや死〔しに〕のこりたる庵〔あん〕の主
は、西行の
願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
のパロディだ。

その教養をさほど共有しない僕ら現代人が彼らの句を読むには、その元ネタをある程度おさえている教養あるガイドが必要になる。
そのガイドがいわゆる評釈というものだ。
ところが松浦さんは、ただ和漢の古典をおさえるだけでなく、芭蕉以降の作品を想起して、言及し、芭蕉の句と響き合わせている。
松浦さんが芭蕉の句から装備したのは、北原白秋・西脇順三郎・吉岡実の近・現代詩、ボードレールにクリスティーナ・ロセッティにブルトンの『シュルレアリスム宣言』といった西洋文学、村上隆のスーパーフラット作品、ベルトルッチの映画『ラストエンペラー』、ドビュッシーのピアノ曲「沈める寺」など、芭蕉が知り得なかった19世紀から21世紀にかけての作品だ。

僕ら現代人は、芭蕉や蕪村ほど古典に詳しくはないけれど、彼らの句を読んで、彼らが見ることのなかった『新世紀エヴァンゲリオン』や読むことのなかった『ちびまる子ちゃん』を思いだすことだってありうる。
読むことの正解はひとつではなくて、読み手が立っている場所と時間が変わるだけで、作品がまるで別の様相を見せる。古典を作るのは芭蕉や蕪村ではなく、僕らひとりひとりの読者なのだ。
一茶を再評価する
実際には芭蕉や蕪村の句は現在でも広く読まれている。それは彼らが、必ずしも古典の素養がなくても読める句を書いているからだ。でも彼らが想定していた読者は、あくまで古典の教養のある読者である。
でも一茶は違った、と長谷川櫂さんは言う。

長谷川さんによれば、古典の素養がない読者が読んでわかる俳句は、世間で言われているように明治期の正岡子規に始まったのではなく、すでに一茶から始まっていた。
一茶が活躍した江戸時代末期は、俳諧が大衆化し、古典の素養のない一般庶民が句作の世界にどんどんはいってきていたというのだ。
長谷川さんが評釈した「新しい一茶」は、書誌データでは「長谷川櫂選」となっているが、長谷川さん自身が文中で述べているように、俳人で若手の一茶研究家である大谷弘至さんが選んだ一茶のベスト句に、長谷川さんが日本の俳文学史を書き換えるような観点から精細な評釈をつけたもの。
知名度のわりに文学的には一段低くみられがちだという一茶を、長谷川さんはここで再評価しようとしている。
ここで述べられた新しい史観によれば、一茶がきちんと再評価された暁には、一茶の前の時代に位置する蕪村と、後の時代に位置する正岡子規の両方が、割を食うことになるという。
いまの時期にふさわしい句
とは言え蕪村の句はいつ読んでもステキすぎる……好きすぎて、蕪村について書くと長くなりすぎるから、今回は書きません!
辻原登のオシャレな評釈「夜半亭饗宴〔シムポシオン〕」を黙って読めばいいんです。
また芭蕉の紀行文『おくのほそ道』(1689/1694)も、読めば読むほど旅行がしたくなる。
それも、人でいっぱいの有名な観光地に行くのではなくて、自分を日常のしがらみからいったんリセットできるような場所に行って、ディスカバー(そこらの)ジャパンしたくなる。

最後に、いまの季節にふさわしい句を本巻から選んでみた。
一茶
夕暮や蚊が鳴出してうつくしき 『物見塚記』(1811)
青空のやうな帷〔かたびら〕きたりけり 『七番日記』(1812)
蟻の道雲の峰よりつゞきけん 『おらが春』(1819)
冷汁やさつと打込〔うちこむ〕電〔いなびか〕り 『八番日記』(1820)
芭蕉
涼しさを我宿にしてねまる也 『おくのほそ道』(1689/1694)
雲の峰幾つ崩て月の山 同
京にても京なつかしやほとゝぎす 『をのが光』(1690)
朝露によごれて涼し瓜の土 『続猿蓑』(1694)
蕪村
鮒ずしや彦根の城〔じやう〕に雲かゝる 『新花摘』(1777)
みじか夜や枕に近き銀屏風 「自筆句帳」(1770)
夕風や水青鷺の脛〔はぎ〕をうつ 同(1774)
夏河を越すうれしさよ手に草履 同(年代不詳)
旅に!
旅にいますぐ出たいです。
この巻の収録作はこちら。
芭蕉
・紀行俳文『おくのほそ道』(1689/1694。松浦寿輝訳)
・俳句百句(松浦選・釈)
・連句集『冬の日』(1684)より「「狂句こがらしの」の巻」(feat.荷兮・野水・重五・杜国・正平)(松浦釈)
・連句集『猿蓑』(1691)より「「鳶の羽も」の巻」(feat.去来・凡兆・史邦)(松浦釈)
蕪村
・辻原登選・釈 俳句「夜半亭饗宴〔シムポシオン〕」
一茶
・大谷弘至選+長谷川櫂釈 俳句「新しい一茶」
丸谷才一×大岡信『とくとく歌仙』(1991)より
・「歌仙早わかり」
・「加賀暖簾の卷」(feat.高橋治)
次回は第19回(第2期第7回)配本、第18巻『大岡昇平』で会いましょう。

(千野帽子)