「兵士を投入する必要はなくなった」リトアニアが直面する情報戦の実態とは?

アメリカのミレニアル世代が「新しい情報をアップデートする」という意味で使う「Woke」をタイトルの一部に組み込んだ本コラムでは、ミレニアル世代に知ってもらいたいこと、議論してもらいたいことなどをテーマに選び、国内外の様々なニュースを紹介する。今週もテーマとして取り上げるのはフェイクニュースだ。
バルト3国の1つとして知られるリトアニアは人口300万足らずの小さな国だが、2014年のロシアによるクリミア併合以降、ロシアの脅威に備えて安全保障体制の強化を図ってきた。徴兵制度が復活し、ドイツ軍を中心としたNATO軍部隊も防衛協力の一環で駐留を開始。しかし、駐留NATO軍部隊やリトアニアの軍関係者らを標的にしたフェイクニュースが、ロシアから頻繁に発信されるようになった。


14人が命を落としたテレビ塔
「情報コントロールのやり方は変わった」との指摘も


「兵士を投入する必要はなくなった」リトアニアが直面する情報戦の実態とは?
リトアニアのヴィリニュス郊外にあるテレビ塔(撮影:仲野博文)

バルト三国の中で最も人口の多いリトアニアは日本の東北地方とほぼ同じ広さの小国で、2010年には約320万人が暮らしていたが、職を求めて他のEU諸国へ移り住む人が後を絶たず、現在の人口は300万人を切ったというデータも存在する。カウナス日本総領事館でビザを発給し続け、多くのユダヤ人をナチスの迫害から救った杉原千畝氏の功績は日本でもよく知られているが、リトアニアという国そのものをイメージするのは容易ではない。

安倍首相は1月中旬にバルト3国を訪問。日本の首相によるバルト3国訪問は、今回が初であった。
1月13日にリトアニアのスクバルネリス首相と首脳会談を行った安倍首相は、1月14日に首都ヴィリニュス郊外にあるアンタカルニス墓地で献花を行っている。19世紀の初めに作られたこの墓地には、リトアニア人だけではなく、戦争で命を落としたポーランド人やロシア人も埋葬されている。後述するが、1991年1月13日に発生した「血の日曜日事件」で死亡した14人の犠牲者のうち、12人がこの墓地で眠っている。

リトアニアは第二次世界大戦終盤の1944年にソ連に編入されたが、1980年代後半から独立の機運が高まり、1988年にはソ連からの独立を目指す目的で政治組織が結成されている。1990年3月にリトアニアは「ソ連からの独立」を一方的に宣言。ソ連側は独立の撤回を求めて、当時のゴルバチョフ政権がリトアニアに圧力を加え続けたが、リトアニアは撤回を頑なに拒否した。
1991年1月8日、モスクワからの指令を受けたソ連軍アルファ部隊(対テロ部隊)と空挺部隊が、リトアニアに移動を開始した。

1月10日、ゴルバチョフ大統領はリトアニアに対し、「ソ連の憲法を遵守しなかった場合、治安維持の目的で数日内にソ連軍による軍事介入もありうる」と警告。リトアニアの政治指導者らが軍事介入を回避するために交渉を試みたが、ゴルバチョフ大統領が応じることはなかった。すでにリトアニアに入っていたソ連軍部隊は、1月11日の朝からリトアニア各地で作戦を開始。防衛省の建物やメディアの集まるプレスハウスなどがソ連軍部隊によって奪われ、その日の深夜までにリトアニア各地の防衛関連施設や鉄道、メディア関係の建物が次々とソ連軍の手に落ちた。

そして、1月13日に前述の「血の日曜日事件」が発生する。
ソ連軍部隊はリトアニアにおける情報コントロールを確実なものにする目的で、ヴィリニュス郊外にあるテレビ塔に向かった。影響力のある放送メディアの心臓部を掌握すれば、マイナスとなる情報はそこで遮断でき、加えてソ連側からのプロパガンダの発信も容易になるからだ。情報の発信や収集でSNSが大きな役割を果たした、「アラブの春」から20年も前の話。テレビやラジオの影響力は現在とは比べ物にならないほど絶大であった。

1月13日早朝、ソ連軍部隊の動きを注視していたヴィリニュス市民が続々とテレビ塔周辺に集まり、ソ連軍の侵入を阻止しようとした。しかし、ソ連軍部隊は非武装の市民らに向かって発砲を開始。
高校生を含む14人が死亡した。この事件がきっかけとなって、国際社会はリトアニア独立を承認する流れとなり、リトアニア以外の国々も独立に向けて動き出し、ソビエト連邦はのちに崩壊する。

「テレビ塔に象徴されるように、軍事侵攻の際に情報のコントロールを徹底するために、兵力を投入してテレビ局やラジオ局を真っ先に奪うという時代がしばらく続いた。しかし、今ではひとりの兵士を送ることも、一発の弾丸も使うことなく、他国での情報操作が可能になりつつある。それこそが、今のリトアニアが直面している現実なのだ」

ヴィリニュス大学国際関係・政治学研究所で情報戦争やプロパガンダの歴史を教える、ネリウス・マリウケヴィチウス氏が語る。新たな脅威となっているのは、フェイクニュースやサイバー攻撃だ。


ドイツ兵が地元女性に性的暴行?
フェイクニュースはロシアによる情報戦か


マリウケヴィチウス氏の指摘は決して荒唐無稽なものではない。ロシアの関与が疑われた2007年のサイバー攻撃では、近隣国のエストニアで数日間にわたってインフラの多くが機能停止に追い込まれたが、リトアニアでも(規模は小さかったものの)翌年に公共サービスを狙ったサイバー攻撃が発生している。そして、昨年からは意図的に作られた「ニセ情報」がSNSやメールで拡散され、それらはロシアによる情報戦の一環であるという認識がリトアニアでは一般的となっている。

ロシアによるクリミア併合を受けて、リトアニアでは2015年に徴兵制度が復活した。2017年1月からはNATO加盟国であるリトアニアの防衛体制をサポートするために、ドイツ軍部隊が駐留を開始した。2017年2月7日にはドイツのフォン・デア・ライエン国防相が駐留ドイツ軍部隊の歓迎式典に出席したが、その1週間後にリトアニア国会議長や国内メディアに、「ドイツ軍部隊の宿営地の近くで、15歳のリトアニア人の少女が、ドイツ語を話す複数の男性に性的暴行を受けた」という内容のメールが届いた。


リトアニア当局やドイツ国防省は、すぐにメールの真偽を確認するために調査を開始。メールに書かれていた「15歳の少女」は実在せず、性的暴行が行われたとされる場所からも証拠となるものが発見されなかったため、リトアニア政府は「メールの内容はデマだった」と公式に発表している。しかし、一部のメディアが裏取りをせずにメールの内容をニュースとして伝えてしまい、それがSNSで拡散される事態へと発展した。後日談となるが、送り主のメールアカウントはすでに削除されていたことが判明している。リトアニア検察はロシアの関与を言及することは避けたものの、「メールはEUの外側から送られた」と、微妙な表現で事件の背後関係を説明している。フェイクメールによって、NATO加盟国の間で分断を引き起こすのが狙いだったのではという見方が大勢を占めている。

今年1月にはリトアニアの民放テレビ局がサイバー攻撃を受け、ハッキングされたウェブサイトにフェイクニュースが掲載されるという事件も発生している。リトアニアの国防大臣が女性記者にセクハラを行っていたという内容のもので、リトアニアの捜査当局がIPアドレスを調査した結果、サイバー攻撃はロシアのサンクトペテルブルグから行われていた。

頻繁に発信されるニセ情報。現時点ではリトアニアの政府やメディアが捜査やファクトチェックをすることで対処できているが、今よりも大量のフェイクニュースが、より巧妙な手口や内容で発信・拡散された場合、社会に大きな混乱を引き起こす可能性は決して低くない。「銃や兵士を使わずに他国の情報操作ができてしまう時代」は、すでに目前に迫っているのかもしれない。

(仲野博文)