ケンドリック・ラマーが受賞したピュリッツァー賞とはどういった賞なのか?

アメリカのミレニアル世代が「新しい情報をアップデートする」という意味で使う「Woke」をタイトルの一部に組み込んだ本コラムでは、ミレニアル世代に知ってもらいたいこと、議論してもらいたいことなどをテーマに選び、国内外の様々なニュースを紹介する。7月にフジロックに出演するため来日するケンドリック・ラマーは、アメリカでいま最も勢いのあるラッパーだが、4月17日にピュリッツァー賞の音楽部門で、ラッパーとして初めて賞を手にした。ピュリッツアー賞とは、どのような賞なのか。ケンドリック・ラマーがピュリッツァー賞の音楽部門を受賞したことの意味などを、少し考えてみたい。



1917年に始まったピュリッツアー賞
きっかけは「イエロー・ジャーナリズム」に対する反省


ケンドリック・ラマーは現在のアメリカで最も影響力のあるラッパーだ。1987年にロサンゼルスのコンプトンで誕生。コンプトンはヒスパニックと黒人の人口比率が高いエリアで、ラッパー兼プロデューサーとしてエミネムやスヌープ・ドッグを世界的なスターにしたことで知られるドクター・ドレーや、ラッパーのクーリオ、意外なところでは俳優のケビン・コスナーの故郷としても知られている。16歳ですでにミックステープを制作。その後、インディーズレーベルでアルバムをリリースし、2012年のメジャーデビュー後に全米で名前が知られるようになった。2016年のグラミー賞では11部門にノミネートされ、5部門で受賞している。2018年のグラミー賞でも7部門にノミネートされたラマーは、グラミー賞ではすでに常連ともいえる存在になり、他の音楽賞でのノミネートや受賞も珍しい話ではなくなったが、ピュリッツアー賞の音楽部門受賞は多くのファンを驚かせた。

ピュリッツアー賞は、活字メディアの功績を称えるために作られた賞で、現在は文学や音楽といった部門も存在する。ケンドリック・ラマーが昨年リリースしたアルバム「DAMN」が「現代のアフリカ系アメリカ人の複雑な人生を捉えた作品」として、ヒップホップでは初となるピュリッツアー賞の受賞となったわけだが、そもそもピュリッツアー賞とはどのような賞なのだろうか?

ピュリッツアー賞が創設される以前、19世紀のアメリカでは「イエロー・ジャーナリズム」と呼ばれる報道スタイルが読者の人気を博し、多くの新聞社がこれによって莫大な利益を手にしている。イエロー・ジャーナリズムの特徴は、派手な見出しで読者を引き付け、誇張された事実や事実ですらない情報が記事の中には散りばめられていた。1898年にはアメリカとスペインの間で米西戦争が勃発したが、開戦前にはアメリカ国内の多くの新聞がセンセーショナルな見出しで反スペイン感情を煽る記事を連日掲載し、キューバに駐留していたスペイン軍がアメリカ人女性を襲ったとする捏造記事も珍しくなかった。

この頃、すでに新聞社を所有していたジョセフ・ピュリッツァーは、米西戦争前に新聞の部数を伸ばす目的でイエロー・ジャーナリズムに加担したことを反省し、1903年にジャーナリズムの質の向上を目的に、死後に財産の一部をニューヨークのコロンビア大学に寄付するとする協定を作成し、それに署名した。ピュリッツァーは1911年に死去し、翌年にコロンビア大学内にジャーナリズム大学院が創設された。ピュリッツアー賞は1917年からスタートし、現在に至るまで運営はコロンビア大学のジャーナリズム大学院によって行われている。

ヒップホップでアメリカの現状を伝えたラマー
人種差別や格差の広がりはむしろ悪化する傾向に


白人警察官が丸腰の黒人を射殺する事件が相次いだ2014年、アメリカでは「ブラック・ライブス・マター運動」が各地に広がり、黒人が簡単に殺害されてしまう社会を変えようという運動や集会が頻繁に行われたが、その中心にいたのもラマーであった。2014年にはミズーリー州ファーガソンで丸腰の黒人青年(マイケル・ブラウンさん)が警察官に射殺されたことがきっかけとなり、暴動が発生。英ガーディアン紙のアメリカ特派員としてファーガソンで取材を続けたローリー・キャロル西海岸支局長は、地元住民と警察との間に何年にもわたって軋轢が存在していたなかで、ブラウンさん射殺事件がきっかけとなって市民の怒りが沸点に達したのだと語る。

「ファーガソンで話を聞いた地元住民の多くが、何年もの間、地元の警察官から嫌がらせを受け、暴言を吐かれた経験があると語ってくれた。ファーガソンの警察官のほとんどは白人で、黒人がコミュニティ内で政治・経済的に隔離されている現状を示す一例と言えるだろう。黒人住民の多くが行政に対して楽観的な考えは持っておらず、教育や雇用といった問題でも他都市より閉塞感が強いように思える」

「DAMN」のリリース前から、ケンドリック・ラマーがラップを通じて行った問題提起は、アメリカ全土に長きにわたって存在する社会問題であり、ピュリッツァー賞の選考委員会がラマーのアルバムを選んだことは、新しい時代や価値観の到来をも意味するように思われる。

少し古いものになるが、米司法省が公開したデータによると、2003年から2009年までの間に、全米で警察による拘束前や拘束後に死亡した容疑者は少なくとも4813人に及び、事件現場で警察官によって射殺された容疑者は410人に達していた。拘束時に容疑者が死亡する確率は、人種によって大きく異なる。2003年から2006年の間に拘束時に死亡した黒人は100万人あたり3.66人。ヒスパニック系は1.92人、白人になると0.9人にまで減少する。このデータではアジア系の死亡率が最も低く、100万人あたり0.75人となっている。黒人の死亡率は白人の4倍以上だ。

サンフランシスコに隣接するオークランドの人種構成は白人と黒人がそれぞれ約30パーセントずつとなっているが、警察が容疑者を死亡させた事例では、極めて偏った人種バランスが存在する。アメリカ最古の公民権運動団体として知られるNAACP(全米黒人地位向上協会)は、2004年から2008年の間にオークランドで警察官が容疑者に対して発砲した事例を調査。45件の発砲の中で、37件は黒人容疑者に対して行われたもので、白人は1人もいなかった。15件では撃たれた容疑者が死亡。45件全てで発砲した警察官が罪を問われることはなかったが、容疑者が武器を所持していなかったケースが全体の約4割を占めていた。

アメリカ国内の人種問題が無くなるまでにはさらなる時間を要するだろう。もしかすると、人種問題が解消されることは永遠にないのかもしれない。しかし、音楽というメディアで人種問題や格差問題に対して問題提起を行ったラマーの功績は計り知れない。遠くない将来、ラマーのピュリッツァー賞受賞がアメリカにおける人種問題解決のマイルストーンとして思い出されることを切に願う。
(仲野博文)