日産自動車が経営再建策を少しだけ具体的に提示した。本社工場とも云える追浜工場(神奈川・横須賀市)の閉鎖である。

そこには先の大戦中から終戦まで、横須賀海軍航空隊とその飛行場があったため、広大な敷地があった。


 しかし、「Re:Nissan」と題した再建計画や、2025年3月度決算報告を何度読み返しても、日産の再建具体像が見えてこない。


 追浜工場の現在地は、1948年(昭和23年)に富士自動車が広大な土地に工場を構え、1958年(昭和33年)まで米占領軍自動車の修理・解体・再生業務を行なっていた。ところが1955年(昭和30年)に米軍修理車両の激減による追浜工場の人員整理が発表され、これを不満とする労働組合との大規模な争議が発生、富士自動車追浜工場は閉鎖され、これを日産自動車が入手した。これが日産のマザー工場の発端である。


 そして1961年(昭和36年)、日本で初めての本格的乗用自動車生産工場として操業を開始した。この最新のブルーバードを生産する工場では、混流ライン(NIMS=Nissan Integrated Manufacturing System)と呼ばれる同じラインで複数の車種を同時に生産する技術を業界で初めて採り入れた。


 敷地面積は170万7000平方メートル(東京ドーム約37個分に相当)、生産能力は年間約24万台の世界屈指の超大型完成車生産施設である。敷地内には月間8万台を出荷できる専用港湾埠頭や総合研究所、テストコースも内包している。


 その追浜工場の広さと最新設備を使って生産されたのが、日産の歴史で輝かしい戦歴を残す「DATSUN BLUEBIRD(ブルーバード)」だ。


 ■斬新なスタイリングと先鋭的なメカニズム搭載したブルーバード、国産スポーツセダンの名車「510」


 日産の初代ダットサン・ブルーバードが誕生したのは1959年7月のことだ。ダットサン・セダン「210型」の後継としてデビューしたブルーバードP310系は、ファミリーセダンとしての基本性能の高さが評価されヒット作となった。


 続く、1963年9月にデビューした2代目ダットサン・ブルーバード410系は、伊ピニンファリーナに依頼したとされるデザインに賛否があり、1964年にRT40型にスイッチしたトヨペット(トヨタ)コロナにトップセラーカーの座を奪われる。そのため、日産開発陣は次期ブルーバードの開発に並々ならぬ力を注ぎ、ベストセラーカー称号の奪還を目指した。


 ■最新のSOHCエンジンとスタイリッシュな外観を得た510型


 技術の日産の面目躍如といえる3代目「ブルーバード510(ゴー・イチ・マル)型」がアンベールしたのは1967年。その年の8月9日、敢えて仏滅の日に衝撃的なプレス発表を行なった。


 発表会で日産は「ビス1本まで新しく開発した」と豪語し、メカニズムだけでなく、先代で不振だったスタイリングにおいても最新のモードに刷新した。とりわけエクステリアはウェッジシェイプのダイナミックなデザインとされ、超音速旅客機SSTをイメージしたという直線的な「スーパーソニックライン」と呼称するキャラクターラインを纏ったスタイリッシュな外観を手に入れ、国産車で初めてフロントドアから三角窓を取り去った。高速道路が次々と開通した時代にふさわしいスポーティな造形だった。


 新開発のエンジンはそれまでのOHV形式から高回転までスムーズに回る最新のSOHC形式のL型エンジンに大きく進化した。デビュー時はベーシックなモデルには1.3リッターにシングルキャブを組み合わせたL13型直列4気筒エンジンを搭載した。


 1296ccのL13型エンジンは、ボア×ストローク83.0×59.9mmの超ショートストロークエンジンで、その最高出力は先代比プラス10psの72ps/6000rpm、最大トルクは10.5kg.m/3600rpmを発揮した。当時のライバル、RT40型トヨペット・コロナの1.5リッターエンジン(70ps)を上回るパワーを得ることに成功した。


 サスペンションは当初の設計では410系を踏襲した前ダブルウイッシュボーン式、後リジッドアクスル式とする予定だった。

が、開発途中で独BMWが先鞭を付け、以降の高性能小型ファミリーセダンで主流となる四輪独立懸架式に変更された。


 フロントはマクファーソンストラット&コイルの独立、リアはセミトレーリングアーム式独立となり、以後の日産FR車の定番リアサスペンション“セミトレ”となった。このセミトレ式サスは、優れた操縦安定性と上質な乗り心地を両立し、高速走行だけではなく当時の日本でまだまだ主流だった未舗装路も意識したチューンで、堅牢さも兼ね備えた足回りだった。


 ■繰り返してはならない「村山工場」の徹


 今回の日産追浜閉鎖決定は、どうしても日産の“負の歴史”を思い出させる。リバイバルプランのやり直しのようなのだ。人員削減や工場閉鎖で生産能力を減らし、縮小均衡を目指しているだけだ。目先のことだけを考えて一時しのぎの策は、計画が破綻した時、どんな結果が待っているのか。ふたたび事業や設備の整理に迫られるだけのような気がするのは筆者だけだろうか。


 20年ほど前、日産は大型主力村山工場閉鎖を実施した。1999年に日産に赴任したカルロス・ゴーン氏が再建計画を推進。村山工場はプリンス自動車の生産拠点で、「スカイライン」「グロリア」などを生産した輝かしい歴史を持つプリンスの拠点である。日産リバイバルプランは一定の成果をあげた。

2003年までに2兆1000億円の借金を完済し、V字回復を果たした。ただ、その陰にはグローバルで2万1000人の人員整理、下請け企業半減といった苛烈な施策があったことも事実だ。村山工場では下請けや周辺業者を含め数万人が影響下にあったと云う。巨大な経済圏が失われたのだ。


 今回の追浜工場閉鎖の件は、同じ轍を踏んでいるような気がして仕方ないのだ。決算発表で株主や経済記者の質問にエスピノーサ日産社長は、「未だ、何も決まっていない」と繰り返すだけで、再建の具体策は追浜工場の生産設備の休止閉鎖だけだ。


 かつて村山工場の閉鎖とともに「グロリア」「セドリック」「サニー」などの伝説の日産車が姿を消し、看板だった「スカイライン」も風前の灯火、スカイラインの冠の無い「GT-R」も間もなく生産を終える。
 
 日産追浜工場の閉鎖は膨大な地方経済圏の消失だが、日産そのものの終焉に繋がらなければ、と切に願う。(編集担当:吉田恒)

編集部おすすめ