リニア妨害の急先鋒とされた静岡県の川勝平太知事が辞任して1年以上が過ぎたいま、リニア工事は順調に進んでいるのか。ジャーナリストの小林一哉さんは「川勝前知事の“妨害”とは関係ない工事の遅れが各地で発生している。
川勝知事がいなくても、当初の2027年開業は夢のまた夢だった可能性がある」という――。
■遅れに遅れているリニア工事
JR東海は7月17日、山梨県から静岡県境に向けて掘り進めているリニア南アルプストンネルの「先進坑」が、ようやく県境手前の300メートルに入ったと発表した。
先進坑は本坑掘削前に地質や湧水の状況を把握するための断面の小さなトンネルで、最終的には作業用や避難道として活用される。南アルプストンネル山梨工区では先進坑とともに、今後、トンネル本坑が掘り進められていくことになる。現在の時点で、JR東海は工事完了の見通しを「2030年」としている。
2015年12月の山梨工区の起工式で、当時は10年間で工事完了と見通したが、いまのところ5年遅れとなっている。実際には、同工区の工事完了がさらに遅れるのは必至である。
2016年11月に起工式を行った南アルプストンネル長野工区でも工事完了見込みを「2030年」としているが、土被(どかぶ)り約1400メートルと前代未聞の山岳トンネル区間が待ち構えており、こちらもさらなる遅れが見込まれる。
■川勝知事だけが「リニア開業遅れ」の犯人なのか
JR東海は2010年4月、品川、名古屋間の開業を「2027年」とし、国の建設指示を受けて、2014年12月に品川駅、名古屋駅の工事に着手した。
2023年12月になって、品川、名古屋間の「2027年開業」を、静岡工区の未着工を理由に、開業を「2027年以降」に変更すると発表した。
この発表で、2027年開業を遅らせた“犯人”は川勝平太・静岡県知事(当時)となり、「2027年に開業できないのは川勝知事が静岡工区の着工を認めなかったことが原因」とのメディア報道が現在でも続いている。
しかし、川勝知事の退場後に、リニア沿線各地で工事の遅れが明らかになり、未着工の南アルプストンネルの静岡工区だけでなく、山梨工区、長野工区など31カ所で工事の遅延が出ていることをJR東海は認めている。

筆者が静岡工区でのJR東海の対応を取材していくと、当初の計画がずさんで見通しも甘く、2027年開業などとうてい無理だったことがはっきりとわかった。
静岡工区について、JR東海は2024年3月、トンネル工事着手から完了まで10年間必要であることを明らかにしている。
実際には、山梨工区と同様に少なくとも15年間、さらにそれ以上の長期間の難工事となってしまう可能性が非常に高い。リニア開業は「2037年以降」となりそうである。
■川勝知事は確かに「いちゃもん」で工事を遅らせた
静岡工区の遅れについて見ていく。
JR東海は2013年、環境影響評価準備書の中で、「トンネル工事で大井川上流部の流量が毎秒2トン減少する」と大井川の中下流域の水環境に大きな影響が出ることを公表した。
毎秒2トン減少に対して、JR東海は2017年10月までに、トンネル内の湧水減少分の毎秒1.3トンをリニアトンネルから大井川の椹島付近まで導水路トンネルを設置することで回復させ、残りの0.7トンは必要に応じてポンプアップで導水路トンネルへ戻す方策を示した。
この方策に対して、川勝知事は同年10月10日の会見で、「あたかも水は一部戻してやるから、ともかく工事をさせろという態度に、私の堪忍袋の緒が切れました」などとJR東海への不満を爆発させてしまった。
毎秒2トン減少は、大井川流域の7市へ水道水を供給する大井川広域水道企業団に許可されている水利権と同じ量である。
川勝知事は「流域約60万人の生活用水に問題が生じる」などとして、毎秒1.3トンでなく、毎秒2トンの「全量戻し」をJR東海に求めた。
それなのに、JR東海は同年11月に静岡工区のリニアトンネル工事共同企業体と請負契約を結び、2026年11月末に工事完了すると発表した。11月着工はトンネル工事を完了させるためのぎりぎりの期限と言えた。

■JR東海は本当に急いでいたのか
リニア工事にとって、南アルプス山岳地帯は最難関の工事になることは当初からわかっていた。
糸魚川静岡構造線、中央構造線が通る「世界最大級の断層帯」であり、破砕された脆弱な地層が多く分布している。大量の突発湧水など何が起きるのかわからないほど不確実性が高く、だから一日でも早く着工したいのが本音だった。
それなのに、2017年10月の時点で、工事の許可権限を持つ川勝知事を怒らせてしまい、紛糾することは必至で収拾のつかない状況となっていた。
本当に、2027年開業が政府との約束ならば、静岡県への対応を何よりも優先させなければならない。ところが、JR東海の対応を見れば、まったく急いでいないことがわかる。
■リニア工事に不可欠な林道改良工事
当時の金子慎JR東海社長(現・会長)は2018年6月になって、キーパーソンの川勝知事を無視して、県庁隣の静岡市役所を訪れ、静岡市長と「リニア南アルプストンネル静岡工区内の建設と地域振興に関する基本的合意書」を取り交わしている。川勝知事と面談するのはその2年後である。
静岡工区のトンネル工事現場は静岡市の大井川源流部にある。
静岡市内から約2時間掛けて南アルプスのふもとに位置する井川地区に入り、静岡市の管理する東俣林道(延長27.3キロ)を抜け、さらに2時間近く掛けて源流部に向かわなければならない。
つまり、東俣林道を工事用道路として利用しなければ、リニア工事はまったくできない。だから、地域振興を提供して、静岡市の便宜供与を受けることにしたのだ。

■23年に終わる予定の林道改良工事はいまだ未完了
JR東海は、リニア建設の工事道路として東俣林道を使う代わりに、地元の井川地区の住民たちが要望した県道トンネル約140億円の費用すべてを負担することになった。
東俣林道は入り口にゲートが設けられ、静岡市の許可車両のみが通行できるが、一般道路と違い、自然環境に大きく左右される道路である。ほとんど未舗装のでこぼこで落石や土砂災害が多く、しばしば通行止めとなる。台風、大雨などに見舞われれば、大きく崩落するなど復旧するまで時間が掛かっていた。
これでは大型車両が通行する工事用道路には不適格だった。
そこで2019年7月、JR東海は総工費約80億円を負担して、林道改良工事を行う協定を静岡市と結んだ。同年12月に着工し、2023年3月末までに林道改良工事を完了するとしていたが、いまだに完了していない。
リニア工事で不可欠な林道改良工事を見ても、JR東海が静岡工区のリニア工事をまったく急いでいないことがはっきりとわかるのだ。
■金子社長の「2027年に間に合わない」発言
そんな中で、「2027年開業に待ったを掛けたのは川勝知事である」というシナリオがJR東海によってつくられていく。
金子社長は2020年5月29日の会見で突然、「6月中に静岡工区の準備工事ができなければ、リニアの2027年開業は難しい」と発言した。新聞、テレビは金子発言を大きく報道した。
すべての記者が金子発言を頭から信じ込んでしまった。
筆者を含めて記者たちは、トンネル本体工事は着手から完了まで10年間を要することを知らなかったからである。
この発言のあと、金子社長と川勝知事の初めての会談が同年6月26日に予定された。
■JR東海は印象操作をしていたのではないか
トップ会談を前に、川勝知事は6月19日、台風19号で崩落した東俣林道の状況などを視察した。宇野護JR東海副社長が同行した。
川勝知事は「林道の安全性に問題がある。危険だ。林道整備を急ぐべきだ」などと指摘したが、記者たちの関心は、金子社長の求める「準備工事」を認めるかどうかに集中していた。
準備工事とは椹島ヤード、千石ヤード、西俣ヤードの樹木伐採、斜面補強や濁水処理設備の設置などを行うことである。つまり、作業基地の整備であり、川勝知事が許可権限を持つトンネル本体工事とはまったく関係のない話である。
そこで筆者は宇野副社長に、「もし、2027年開業に準備工事が外せないならば、静岡県の権限などないに等しいのだから、地権者の特種東海製紙に強く要請すればいいのではないか」と尋ねた。
宇野副社長は「静岡県の了解を取ってくれと特種東海が言っているから」と答えた。本当に「準備工事」がそれほど必要ならば、JR東海は川勝知事とではなく、特種東海とトップ会談をやればいいだけのことである。

これではまるで、静岡県がリニア工事にストップを掛けるかのような印象操作をJR東海が行っているとしか思えなかった。
■川勝知事の発言が「遅れの決定打」になったかのような報道
そして、6月26日、金子社長と川勝知事の会談が行われた。
金子社長は「ヤードの件は水環境問題とは関係ない。それ以前の問題と理解してもらいたい」と述べると、川勝知事は「県自然環境保全条例は5ヘクタール以上であれば協定を結ぶ。県の権限はそれだけである」と回答した。
その後の囲み取材でも、川勝知事は「条例に基づいて協定を結べばよい。活動拠点を整備するならばそれでよいと思う」などと述べ、ヤード工事をいったんは認めていた。
ところが、1時間後に再び囲み取材を行い、川勝知事は「県自然環境保全条例に基づいてヤード工事を認めない」と前言を翻してしまった。つまり、金子社長の求めた準備工事にむりやり「ノー」を突きつけたのだ。
翌日の新聞各紙は1面トップで、「知事ヤード整備認めず、JRリニア延期表明へ 初のトップ会談物別れ」(中日)、「リニア27年開業延期へ 静岡県知事、着工認めず『JR東海の環境対策不十分』」(読売)などと、準備工事を認めない川勝知事によって、2027年開業が延期せざるを得なくなったと報道したのである。
この日の会談で「2027年開業を遅らせた“犯人”は川勝知事である」が決定的となった。
■トンネル工事は「最低10年」かかることが明らかに
ところが、2024年3月28日、国のモニタリング会議で“真実”が明らかになった。

JR東海の澤田尚夫リニア推進本部副本部長(現・本部長)は「静岡工区のトンネル工事は極めて難易度が高く、掘削距離が長いということで着手から開業まで10年を要すると考えていた」ことを明らかにしたのである。
それだけではない。澤田副本部長は「トンネル掘削期間が短くなるという可能性はないわけではないが、現段階で同じ南アルプスの山梨工区、長野工区の掘削実績を踏まえても工期が短くなる材料は見つからない」とした上で、「(静岡工区の)2017年の契約当初に考えていた期間を短縮するのはなかなか厳しく、さらに工期が延びる可能性は十分にある」と正直に述べているのだ。
これで2020年の金子社長の発言がブラフ(はったり)であり、真っ赤な嘘だったことがはっきりとわかった。筆者を含めてすべての記者がだまされてしまったのだ。
2020年6月時点で、川勝知事が「準備工事」を認めたとしても、2027年開業などできるはずもなかったのである。
■そもそも「2027年開業」の見通しが甘すぎた
静岡工区のトンネル本体工事を2017年に着手できても2027年開業にとってぎりぎりの段階だったが、山梨工区、長野工区の遅れを見れば、それは甘い見通しとしか言いようがない。
リニア工事で真っ先となる2014年12月に着工しても、2027年開業ができるのかどうか難しかったのである。
それなのに、2017年になってから、JR東海は静岡県への対応をようやく始めた。静岡県がJR東海に「白紙委任状」を出すとでも思っていたのだろうか。
東俣林道の改良工事はいまなお行われている。落石や土砂災害対策は計画の40%程度しか進んでいない。JR東海の林道整備の完了目標は「2027年」である。やはり、JR東海はリニア開業を急いでいないように見える。

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小林 一哉(こばやし・かずや)

ジャーナリスト

ウェブ静岡経済新聞、雑誌静岡人編集長。リニアなど主に静岡県の問題を追っている。著書に『食考 浜名湖の恵み』『静岡県で大往生しよう』『ふじの国の修行僧』(いずれも静岡新聞社)、『世界でいちばん良い医者で出会う「患者学」』(河出書房新社)、『家康、真骨頂 狸おやじのすすめ』(平凡社)、『知事失格 リニアを遅らせた川勝平太「命の水」の嘘』(飛鳥新社)などがある。

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(ジャーナリスト 小林 一哉)
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