東京電力・福島第一原子力発電所の吉田昌郎所長がガンで他界してこの9日でちょうど2か月。当時の菅直人首相が宰相としても政治家としてもまったくの無能ぶりをさらけ出すなか、原子炉溶融という最悪の事態を食い止めた功績は、まさに壮絶な戦死というに値するものだった。
そのためか、公式にははっきりと否定されているが、放射能による被爆が原因で亡くなったという声は今でも巷で聞かれる。
原子力発電に関係した“戦死”は、吉田所長が初めてではない。1999年9月に発生した茨城県東海村のJCOで起こった臨界事故がそれだ。核燃料の加工施設での作業中、改ざんされた、ずさんなマニュアルで作業をしていた作業員3人のうち2人が大量の中性子を浴び、その場で倒れて、亡くなった。
これが、なぜ、吉田所長同様、壮絶な戦死といえるのか―。今まで語られなかったエピソードをある電力関係者が「最後まで、自分たちの仕事を完遂することに命をかけた」からだと説明する。
この電力関係者は、臨界事故の収拾直後に特別に事故現場に入ることを許されたひとり。防護服に身を包んで入った施設にある違和感を覚えたという。それは、「大事故の現場にも関わらず、作業に使っていたバケツや作業用具がきちんと指定の場所に整理されていた」ため。現場は、事故発生直後のままなのに、なぜなのか。
この電力関係者が続ける。「被爆した作業員自信が片付けをしたから」。
作業員らが被爆した中性子は16~20シーベルト。被爆した途端に意識を失い、長くても数日で死亡するほどの量だった。「誰もが中性子を浴びたときに倒れたと思っていた。しかし、実際は、マニュアルを完遂してから力尽きた。外に逃げようともぜずに…」。その事実を知ったこの電力関係者は涙が止まらなかったという。
事故の顛末に関しては、企業としてのJCOは罰金だけ、マニュアルの改ざんを行った関係者は執行猶予という軽い刑で、しかも、そのうちのひとりが被爆して生き残った作業員だったなど、ひじょうに後味の悪い結果となった。しかし、亡くなった2人の作業員が非業の戦死といえるのは間違いないだろう。
一方、放射能汚染水漏れの収拾がつかなくなり、ついに国が乗り出すことになった福島第一原子力発電所。東京電力の解散論まで飛び出しているが、吉田所長をはじめ、現場で必死に働いている“地上の星”もいることを忘れてはなるまい。(編集担当:柄澤邦光)