【写真】約2年の奮闘を本にした“コロナの女王”岡田晴恵
──感染症対策の専門家として毎日のようにテレビ出演している岡田先生ですが、そもそもどうやって感染学という学問にたどり着いたのか? 学生時代のことから教えていただけますか。
岡田 私の母親がそもそも教育熱心で、遊びに行くのもNGという家庭だったんですよ。家でもテレビより本を読めと躾けられました。最近、「NHK紅白歌合戦」関連のインタビューを受けた中で改めて気づいたのは、私の世代だったら誰でも知っているような当時の歌謡曲とか流行った曲をほとんど知らなかったんですよ。実は、あの大スタージュリー(沢田研二)さんも、最近、知りました。それでYouTubeで探して、「勝手にしやがれ」の動画を見て、「本当に素敵だなあ」と思って。
男性の魅力と色気、翳りも弱さもその美形のなかに落とし込まれている、沢田研二さんに気づいたり。たぶん、30年以上、人より遅れているんですけれど。やっと知りました。
一方で母の教育効果で、本は大好きだったので、小学校のときも教室や図書館で一人で本を読んでいることが多かった。小学校の高学年の頃には、もう漱石や鴎外、司馬遼太郎も読んでいましたし、中学に入ると吉村昭、阿川弘之、三島由紀夫などの先生らを読んでいましたね。
──最初からゴリゴリの理系というわけではなかったんですね。
岡田 担任の先生からは文学部に行くのじゃないの?って真顔で聞かれました。私もそう思っていましたが、母の意向は理系でした。でも文学って本質的に人間の生き難さ、人生の苦しみが描かれている。小説の主題は人生のつらさや悲しみが多いですよね。そうすると、やっぱり文学って病気とも切り離せないところがある。同様に戦争や貧困も文学のテーマとしては外せない。
岡田 病気が流行ると、それがめぐって世の中の貧困につながる、戦争では戦地でも感染症が流行って、それで亡くなる人も多い。戦争に負けるとまた貧困が襲ってくる。そして、治安も悪くなる、など病気の流行って社会に大きな影響を与えて、それらが巡っている。突き詰めていけば密接に結びついて連動していたりします。
堀辰雄や正岡子規のように結核という病に自身が苦しみ、その中から生まれた文学もある。結核が国民病と言われた時代の世の中で生きた夏目漱石や森鴎外だって同じように苦しんだ。コロナ禍でカミュの『ペスト』が読み直されていますが、歴史を振り返ると、どの時代にも象徴するような感染症の流行があって、その時代に生きた人はそれを乗り越えないといけない。その繰り返し。
今はコロナだということなんだと思います。そういうわけで、自分としてはそんなに遠いところにいたという感覚もないんですね。まあ、文学部に行かなくても、高校では理系クラスでも朝から晩まで、暇さえあれば本を読んでいましたし。
──共立薬科大学(現・慶應義塾大学薬学部)の大学院薬学研究科修士課程を修了。その後、順天堂大学の大学院医学研究科という流れになります。
岡田 大学院の修士課程の修了後、さらに勉強するにあたって2つの選択肢があったんです。ひとつは東京医科歯科大学大学院で生化学を学ぶ。
20代後半の私は、その道路に立って少し悩んだことを覚えています。どうしようかなあ、どっちに行こうかなあと。「生化学をやろうかな? それとも新しく免疫学をやるべきなのかな?」って。今振り返ると、あそこが人生の分かれ道だったんでしょうね。あのときに生化学を選んでいたら、私はもっと早く大学の先生になっていたと思うし。その方が個人的には幸せだったかもしれないし。たった数十秒ですが、道に立って考えました。
──そこで免疫学を選んだ決め手は?
岡田 修士課程では生化学をやったから、今度は免疫学にチャレンジしたい、新しい扉を開けたいと思ったんです。
今は「免疫力アップ!」とよく言われるように、免疫は大切ですが、そのメカニズムは未知のところがまだ多い。一方、生化学だったら修士課程で学んでいたことの延長線上でできるから、実は楽なんです。正直、生化学のほうが自分にとっては堅実な道だったかと思います。修士課程の延長線上で酵素の研究を継続すればよかった。でも、当時の私は新しいことに挑戦したいという気持ちのほうが強かった。違う道から見える光景がどんなものなのか興味あったんです。
──そこからは国立感染症研究所で勤務しはじめます。
岡田 私が順天堂大学の博士課程でやっていた免疫学は、後に感染研でワクチンの有効性や安全性の研究に繋がりました。感染研では、ワクチンの国家検定もありましたから、免疫をやっている人間を欲しかったそうです。ワクチンはつまりは人工的にその感染症の病原体の免疫を付けること。
だから、免疫学がわからないといけない。でも、ワクチンだけやっていればいいという職場ではありませんでした。上司がSARSコロナや新型インフルエンザのパンデミックス対策を世界的に取り組んでいたことで、私はその下働きもするようになりました。ですから、10年間くらいはパンデミック対策や政策などを学びながら仕事をしていました。
2002年の冬のSARSの発生からパンデミック対策の仕事が非常に多くなりました。振り返って私の著作を見ると、当時、私が書いていた本も内容的には新型インフルエンザやコロナのパンデミック政策や対策に関するものが多い。それまで、私にとって本は読むものでしたが、感染研時代は書くことが多くなりました。
──「コロナの女王」として唐突にメディア出演し始めたわけではなく、あたりまえですけど、下地があったわけですね。
岡田 そうですね。岩波新書「感染症とたたかう」がデビュー作ですが、100冊以上は著書があると思います。辞典や共著もありますし。
──感染研を辞めた経緯については、「閉鎖的なムラ社会の雰囲気に嫌気が差した」といった趣旨のことが自著の中で書かれていました。でも厚生労働省にあるわけですから、将来の安定性は申し分なかったはずです。
岡田 安定性ねぇ……。もちろん、国家公務員の安定性とか、待遇などの、そういったことを重視する人もいっぱいおられます。でも、研究所では大学教授になって自分の研究をやりたいと思っている人も多いです。少なくても私の周りでは圧倒的にそういう人が多かった。
よく研究室で、どこどこの大学のポストの公募見た?なんて話は、しょっちゅう話題にはなっていました。だから、そこは私も例外じゃなくて、早く大学教授になりたいとは思っていました。でも、仕事には責任がありますから、時期は考えました。
──そういうものなんですね。
岡田 どういう生き方をしたいか?でしょうね。大学の先生だったら自分の教室を持って、弟子を育てながら自分で選んだ研究ができる可能性が拡がる。研究の自由度が上がります。感染研は厚生労働省の機関だから、やはり業務に沿う研究が多くなります。本省から科研費が潤沢についてくるから楽ではあるんだけど、研究者はそれが全てではないんです。私は、安定した立場にしがみつくということはなかったかな。当時の研究所の仲良かった友人たちも多くが大学教授になりました(笑)。(中編へつづく)
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