【写真】芸人、ドラマ&映画考察、ラジオパーソナリティ、など幅広く活躍中の大島育宙
──大島さんがお笑いに興味を持ったきっかけを教えてください。
大島 厳しい家に育ったので普段からバラエティ番組などを一切観ることができなかったんですけど、中学1年生の時、双子の兄がこっそり聴いていた伊集院光さんのラジオ(TBSラジオ『月曜JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』)が面白くて。それで爆笑問題さんやバナナマンさんのラジオ番組も聴くようになったんです。学校では、ラジオ番組からパクったトーク技術を使って話してみたら簡単に笑いが取れました。深夜のラジオを聴いてる同級生がいなかったのでバレませんでした。
当時、ラジカセに「AM」と「FM」の他に「テレビ」という表記があって、「テレビ」に合わせたらテレビ番組の音声を聴くことができたので、『爆笑オンエアバトル』(NHK)や『エンタの神様』(日本テレビ系)といったバラエティ番組も「聴く」ようになりました。音でしか聴いていなかったので、芸人さんの顔は駅に置いてあるラジオ局の無料広報誌を見て初めて「こういう顔をされているんだ」と知ったくらいです。
──『M-1グランプリ』も観ていなかったんですか?
大島 観ていませんでした。中学の文化祭で友達2人から「漫才をやろう」と誘われて、その2人が今のGパンパンダ(ワタナベエンターテインメント所属)なんですけど。ただ、「漫才」がどういうものかわからなかったので、学校の帰りにTSUTAYAに立ち寄って、モニターに流れている『M-1』のブラックマヨネーズさんのネタを観て「これが漫才か」と学んで。ブラマヨさんが発明したスタイルを漫才だと思い込んで、構造はそのままに、お題だけを変えたネタをやってしまったんです。新しい漫才をやったつもりでいたけど、観ていた人たちはコピーバンドみたいなものとして笑っていた……と後から知って衝撃を受けました。それくらいお笑いを知らなかったんです。親に禁止されていたからお笑いのDVDを借りることもできなくて。
──芸人になろうと思った経緯は?
大島 ちょうど同じ頃、品川(ヒロシ)さんが映画を撮って、麒麟の田村(裕)さんが出版した本が大ヒットして、さらに『アメト──ク!』(テレビ朝日系)でガンダム芸人や家電芸人が盛り上がっていました。自分は映画も本もお笑いも好きで、そのすべてに関わりたいと思っていたんですけど、ネタ以外でやりたいことをやっている芸人を見て「芸人」というハブがあれば、お笑いと別のことをやっても許されるかもしれないと思い始めました。
──芸人になりたい場合、現在だとNSCをはじめとした養成所に入ることが一般的だと思いますが、大島さんは「東京大学」を武器にすることを選びます。
大島 高校の頃、親に黙ってお笑いライブを観に行っていました。渋谷のシアターDという劇場で見た上々軍団さんがとにかく面白くて劇場が壊れるくらいウケていたんですけど、「売れてないこと」を自虐ネタにしていて。
その時点では「自分が将来ずっとお笑いが好きなのか」という自信がなくて、東大受験はその恐怖心からの保険という側面もありました。作家になるにしても映画に関わるにしても、いまの日本社会で東大に入って損をすることはないと思ったので。基本、いつも恐怖心から物事を選択していますね。
──無事東大生になり、お笑いサークル・早稲田大学お笑い工房LUDOに入りますが、まわりのメンバーも高学歴なわけですよね。
大島 学歴をネタにしても予定調和程度にしかウケなくて、むしろ東大と関係ないことをやっているほうが褒められました。
──オードリー若林(正恭)さんの家庭教師をしていたのはその頃ですか?
大島 そうですね。若林さんが疑問に思っていることを聞いて、僕が「こういう歴史を勉強したらわかりやすくなるかもしれません」と日本史や世界史の教科書の範囲を指定させて頂く。若林さんが次の機会までに勉強してきて「なんとなくわかったけど、現代の我々の感覚とは隔たりがあるじゃない」と疑問を投げてくるので、僕は知識を総動員して「僕はこう思うんですけど、ここまで話すとテレビ的にマズくて……」などと延々とラリーしていました。若林さんが抱いていた疑問を縁取ると言うか、教科書を使いながらその背景を肉付けする作業を手伝わせて頂いていた感じです。
──その話を昨年7月に『オードリーのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)で若林さんが話されたんですよね。
大島 以前、若林さんとクイズ番組で共演させていただいた時にすごく冷たくて(笑)、「あれ?若林さん的に黒歴史ってことなのかな?」と思っていたんですけど、数年経って、XXCLUBが『オールナイトニッポン0』を担当した時に触れていただきました。若林さんは僕のことを話すタイミングを見計らってくれていたみたいで、「よきところで言おうと思っていたから、今日がいい日だなって」と話してくださったんです。
──その頃からプロの芸人になる意識が芽生えてきたんですか?
大島 大学時代、知り合いの就職活動のエントリーシートの添削や代筆をやっていたんですけど、みんな頭がいいはずなのに支離滅裂な文章が送られてきて。新卒の一括採用のシステムがあまりにキツいから、みんな自分を見失っていくんだなあ、と。恐怖でした。そもそも学校に行ったり部活に参加することも苦手で精神的にすごく苦しかったので、みんなと一斉に何かをするのは自分なら尚更無理だと思いました。就職することは得策じゃない、自由に生きつつ安定した生活を送れる表現者のほうが精神的なリスクが低いと思って、タイタンに入ったんです。
──なぜタイタンを選んだのですか。
大島 学生お笑いの大会に出たとき、吉本興業からは「入学金なしでNSCに入れます」と言ってもらえたり、あと2つくらいの有名事務所からは「仮所属できます」という話があって。タイタンのマネージャーからも名刺をもらったのでネタ見せにいったんですけど、僕らはオーディション枠なので、今後のタイタンに還元する可能性が著しく低いのに、交通費とお弁当が出たんです。
また、他の事務所のネタ見せは、まだ出番のない若手が裏方も兼ねていることが普通で。
(中編へ続く)
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