モーニング娘
と山一證券、モーニング娘。と小泉構造改革、モーニング娘。とミレニアム問題……。ニッポンの失われた20年の裏には常にモーニング娘。の姿があった! アイドルは時代の鏡、その鏡を通して見たニッポンとモーニング娘。の20年を、『SMAPと、とあるファンの物語 -あの頃の未来に私たちは立ってはいないけど-』の著書もある人気ブロガーが丹念に紐解く。
『月刊エンタメ』の人気連載を出張公開。7回目は2003年のお話。
2000年代前半の日本社会は、常にこの人の言葉と共にあった。

「古い自民党をぶっ壊す」

2001年に第87代内閣総理大臣に任命された小泉純一郎は、革新的なリーダーを望んでいた国民からの絶大な支持を支えに、そのまま「聖域なき構造改革」と呼ばれる大胆な政治改革に着手する。 かねてより掲げていた郵政事業の民営化、銀行の不良債権処理、そして労働者派遣法などの規制緩和は、国民の生活にも大きく影響を及ぼすものでもあった。小泉首相は2001年、就任後初の所信表明演説でこう語っている。


「今の痛みに耐えて、明日を良くしようとする百俵の精神こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないか」

“よりよい明日のために、痛みに耐える”

それはちょうど同じ時期、『LOVEマシーン』での大ブレイクから数年が経過しようとしていた当時のモーニング娘。の状況にも大きく重なる部分があった。累計98万枚を売り上げた2000年の『恋愛レボリューション21』を最後に、シングル売上は下降線をたどり始めていた。2001年10月の『Mr.Moonlight ~愛のビッグバンド~』は約51万枚、2002年10月の『ここにいるぜぇ!』は約22万枚にまで落ちている。

そしてそんな時期のモーニング娘。の中で、もっとも“痛み”に耐えていたのは、2001年に5期メンバーとして加入した高橋愛紺野あさ美小川麻琴新垣里沙の4人であった。
テレビでいつもモーニング娘。を見て楽しんでいた普通の少女たちはまず加入直後に、お茶の間での想像とは全く違う、妥協を許さないパフォーマンス集団・モーニング娘。の高い壁にぶつかる。

「スピードもクオリティーも全部が想像以上」(新垣)(※1)

しかも彼女たちが加入した頃のモーニング娘。はすでに完成された大成功コンテンツになっていた。5期と同世代だった4期の辻加護コンビも含め、それまでの加入メンバーは全員がすでに強烈な個性をウリにテレビの人気者となっている。


「スタッフさんからも『4期見て学んで、もっと個性を出しなさい。つるんでばかりいないで』なんてこともよく言われて、泣いて」(高橋)(※2)
「私達には何が足りないのかなって」(高橋)(※1)

そして先輩たちとの差をなかなか埋められない5期が苦悩の真っ只中にいた2003年1月、さらなる新戦力が加わることが発表された。6期メンバーとして選ばれた藤本美貴亀井絵里道重さゆみ田中れいなの4人である。

藤本は当時すでにソロアイドルとしてその地位を確立しており、2002年の暮れにはNHK紅白歌合戦への出場も果たしていたが、その紅白の楽屋で藤本は突然、モーニング娘。入りを通達された。

また亀井、道重、田中もオーディションの合格とほぼ同時に、何の前知識もないまま、モーニング娘。
の新プロジェクト「さくら組」「おとめ組」のメンバー入りを告げられている。

モーニング娘。を分割することで大人数編成では対応できない小さな会場でのライブを可能にする、そんな構想の元に立ち上がったこのプロジェクトだったが、藤本を除く新メンバー3人にとっての初撮影は、16人のモーニング娘。としてではなく、さくら組おとめ組に分けられたスタジオ収録だった。

そして6期の彼女たちもまた、気づけばこの時代特有の“痛み”に耐える日々を過ごすようになっていく。

「(当時はおとめ組に)「なんで入ったんだろう?」とか、思ってた」(田中)(※3)

「(デビューまもない時期の分割ユニット参加は)人数も少ない分、よけい悪目立ちしちゃうから大変だった」「おとめ組は振り付けも難しいし、ダンスの覚え方もわからなくて……」(道重)(※4)

実は彼女たち5・6期のモーニング娘。
人生の始まりは、グループが『ASAYAN』から巣立った、その時期とちょうど合致している。モーニング娘。を結成から見守り続けてきた『ASAYAN』が2001年にリニューアルし、同時に制作スタッフも一新されたことで、モーニング娘。はそれまでのテレビ的アイドルストーリーから解き放たれ、グループ自らが物語を紡いでいく形に変化している。

またこの時期を境界線として、モーニング娘。の楽曲制作にもちょうど大きな変化があった。それはレコーディングにおいて、それまでつきっきりでメンバーに歌唱指導をしていたプロデューサーのつんく♂が、他のスタッフに制作工程の大部分を託すようになっていたことだ。

モーニング娘。のブレイクとその後のプロデュース企画の急増により、以前のようにスタジオへ通うことが難しくなったつんく♂は、この頃から歌唱指導を自身が歌う仮歌の音源提供へと変更する。歌を聴きこんでもらう形にしたのは多忙な中にも貫かれたボーカリスト・つんく♂のこだわりだったが、その一方でつんく♂はふと、こんな言葉も漏らしている。

「4期メンバーくらいまでは、当時みっちりつきあったぶん、(楽曲の)理解の深さは全然違うと思いますね」(つんく♂)(※5)

この言葉を読み解くとつまり5・6期のメンバーたちは、すでにその成長のスタート時点から、モーニング娘。として見ていた景色がそれまでとは全く違うものになっていたということである。にもかかわらず何も知らない少女たちは、モーニング娘。という大きな看板を偉大な先輩たちと並列に背負い、前時代のような強烈な個性を探し求めて、生きていかなければならなかった。

こうして見ていくと『ASAYAN』の系譜を外れたメンバーの加入も、そしてあのハロプロの大変革(通称「ハロマゲドン」)も、流行り廃りの激しい芸能界の中でモーニング娘。を筆頭としたハロー!プロジェクトが長期的に活動を続けていくための、未来のための構造改革であった、とも考えることができる。

しかしまだ大きな成功体験から日の浅い当時は、ファンの大半が変わりゆく国民的アイドルグループの姿に戸惑いを隠せず、5・6期加入後のモーニング娘。はこの時期からだんだんと、オリコン初登場1位を逃すことが増えていった。

そして変革の代償として生まれたその大きな“痛み”も内包したまま、アイドルの聖域なき構造改革は、2003年7月の安倍なつみ卒業発表を皮切りに、ここからさらに速度が上がっていく。

モーニング娘。19枚目のシングル『シャボン玉』(2003年7月30日発売)。6期加入後初のシングル

※1『モーニング娘。 20周年記念オフィシャルブック」(ワニブックス)
※2『モーニング娘。コンサートツアー2011秋 愛 BELIEVE ~高橋愛 卒業記念スペシャル~』(2011年9月30日)ライブMC
※3『タナカめせん』(エンターブレイン)
※4『道重さゆみパーソナルブック「Sayu」』(ワニブックス)
※5『モーニング娘。×つんく♂2』(ソニー・マガジンズ)