【前編はこちら】山田邦子が語るコンプラ時代のお笑い「結局漫才って、おもしろいかどうか」
【写真】芸人人生を謳歌する山田邦子
自分でYouTubeを撮って出して、って時代が来るなんて、想像もしていませんでした。私が冠番組を持ってバリバリ働いてたころなんて、携帯電話すらなかったんですから。
多忙だった昭和の頃は番組のスタッフに言われるがまま(笑)。オファーを受けてバラエティやって、次は歌番組、次は時代劇。終わったことは忘れていかないと、その時やってる仕事の台本なんて頭に入らない。
正直、すごく強烈な時代だったけど、記憶に深く残っていることって少なかったりします。深く考えずに調子よく忘れていって、だから逆に続けられたのかもしれない。「毎日刺激的でおもしろいな。あ、今日はこんな素敵な人たちに会えた」みたいな。フワフワしながらやってきたんでしょうね。
めっちゃ豪快に飲んだり、遊んだこともありますよ。だけどね、そんなに頻繁には行ってられないです。
「終わり時間30時」って台本に書いてあることもザラ。朝6時のことですよ(笑)!? で、次の日は「6時スタート」って書いてある(苦笑)。何時に寝るの!? って。そうすると照明を直す時間とか、他の人の打ち合わせとか、そういう短い時間に寝ていました。というか、実際には気絶ですけどね。それでもやってこれたんだから、よく頑丈に生んでもらえたと思います。
めまいがしたり熱を出したりしても、それで止まる時代じゃなかった。
テレビ局だってそうですよ。失敗したり、泣いたりしても、そういうNGを集めて番組にして稼いでたんですから。コンプライアンスなんかあったもんじゃない。毎日バカだブスだって言われてたんですから。あははは、いやあ、よく鍛えてもらった。
そもそも、短大の頃からお笑い番組にちょろちょろ出てはいたけど卒業していきなりドラマに出ましたからね。なめてますよ、偉そうに(笑)。それで宇津井健さんとか津川雅彦さんと一緒にご飯食べちゃったりして。みんな「なんだコイツ?」と思ったと思いますよ。
「オレたちひょうきん族」も、最初からレギュラーコーナーがありました。何だったんでしょうね、本当にふざけてます(笑)。けど、クラスや町内の人気者が、明日にはスターになれるというか、そういう夢のある時代だったのかもしれませんね。
自分の冠番組がなくなってきたな、っていう時期になったら、今度はスケジュールが空いたからって、座長公演の舞台をやったりするようになりました。出演者とか内容を自分で考えてできる仕事が増えてきたんです。それも面白かったですね。
舞台って、緞帳が上がったら「生もの」だから緊張は当然するんですけど、それまでNGだろうと何だろうとたくましく稼いできた経験があるから、お客さんの前で何が起ころうとも、どうにでもできるようになっていたんです。今じゃ考えられないようなハプニングもけっこうありました。
ある時、私たちがやってる舞台のストーリーに、客席から勝手に乗っかって来る人がいたんです。私が「〇〇の権利書が無い!」っていうお芝居をしたら、毎日来ているお客さんが、話の筋を知ってるもんだから権利書作ってきちゃって(笑)。大声で「ここにある!」だって(笑)。
そんなの今やったらつまみ出されますよ。でもウケちゃってるから私も「ん、そうか!」なんて客席に降りて行って受け取る。それで「なんだ、これは偽物じゃないか!」って舞台上に戻って話をつなげたりして。いやあ、おもしろかったですね。
私はそれまでずっとピン芸をやってきたから、演者同士のチームワークみたいなものに慣れていなかったんですけど、舞台ともなるとそうはいかないじゃないですか。だからそのころから、共演者の人と一緒に何かを作り上げる、ってことに感謝するようになって、友達もどんどん増えていったと思います。
【後編はこちら】現役で寄席に立つ山田邦子「私の職業は“ネタ”。ふざけたことを一生続けるでしょうね」