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キングの担当ディレクターだった湯浅順司氏が当時を振り返る。今年2月、ユニバーサルミュージックへレコード会社への移籍を発表したAKB48とキングの15年を振り返る3回連載の2回目。
『大声ダイヤモンド』は、それまでAKB48がリリースしていた楽曲とは明らかに異なっていた。もしかしたら、この曲をきっかけにAKB48は上昇気流に乗るんじゃないか。そんな期待をさせるに十分な雰囲気をまとったシングルだった。
湯浅 お陰様で、オリコンウィークリーチャートで初登場3位をいただくことができました。1週目で3位、2週目で11位、3週目で22位でした。それまでのAKB48と違って、順位の落ち方が緩やかだったこともよかったと思います。
僕らは“劇場盤”というCDをAKB48劇場で販売して、握手会を開催しました。これは過去になかったもので、メンバーを個別に指名して、各部に分かれた握手券付きのCDを販売しました。たとえば、“前田敦子 11~12時の回”みたいな。これは僕らが運営さんと協力して初めて実現させたことです。
このシングルはAKB48にとってターニングポイントとなった。目標としていたオリコンチャートも3位を獲得。風向きが変わったことをメンバーもファンも感じていた。
湯浅 もちろん『大声』は名曲だし、風向きが変わったとは思います。でも、僕らスタッフがガラっと変わったと感じている曲は、次にリリースした『10年桜』なんです。
何が変わったかというと、『大声』とは違って『10年桜』は平日にAKB48劇場で握手会を開催しておきながら、かつ週末に別会場で行う握手会の券も販売したんです。ベルサール原宿という場所で土日に開催したところ、信じられないくらい長蛇の列ができたんです。当時の日本青年館まで約1㎞の列が伸びてしまって、警察の方からもお叱りをいただきました(笑)。でも、その場にいた全スタッフが感じました。「これはキテる」って。
それだけではなく、ファン層が変わったなとも感じました。家族連れでいらっしゃる方が急に増えたんです。
その『10年桜』は10万枚を突破。続く『涙サプライズ!』では15万枚を超え、オリコンウィークリーで2位を獲得。世間のAKB48を見る目が変わってきた。同様にキング社内の空気も変わってきた。
湯浅 3位をいただいてから変わりました。当時キングにはそんなアーティストいませんでしたから。僕1人で始まったものが徐々に担当も増えていって、数年後には20人を抱える部署になりました。
2009年10月21日、AKB48は『RIVER』を発売した。当時、私が取材したメンバーはこの曲を「勝負曲」と表現した。選抜メンバーたちは本気で紅白を狙っていた。そういう意味だ。
湯浅 『RIVER』ですべてが変わりました。衣装も曲もカッコいい。だから、女性ファンが一気に増えたんです。結果、オリコンウィークリーチャートで1位をいただけましたし、この曲と『涙サプライズ!』を組み合わせた曲メドレーで紅白歌合戦に再出場もできました。
僕は、AKB48がキングからリリースすることになってから劇場に行って、メンバーに挨拶をしています。そこで話したのは、「オリコンウィークリー1位と紅白歌合戦を目指します」ということでした。こんなに早く実現できるとは思っていませんでしたけど、本当に嬉しかったです。
アイドルヲタクって名乗るのが少し恥ずかしかったりするじゃないですか。2000年代は今よりもっとその空気が強い時代でした。でも、僕はアイドルが好きなことに誇りを持ちたかった。アイドルって素敵じゃん、最高じゃんと思っているから。ショッピングモールで握手会をやりたかったのは、それが理由です。
AKB48の成長はあまりにも急だった。そのため、新宿ステーションスクエアやショッピングモールといった通りすがりでも立ち寄れる場所でのイベントは行えなくなった。人が集まり過ぎるのだ。
紅白歌合戦への返り咲き出場も果たした。『Beginner』ではミリオンを達成した。オリコン1位は当たり前に達成するようになった。テレビCMでも見ない日はないグループへと成長した。
いくつかある要因のなかでも、AKB48を大きく前進させたのは、選抜総選挙である。その渦中に湯浅氏はいた。
湯浅 全10回行われた選抜総選挙ですが、僕は第1回から選挙管理委員長を務めてきました。
総選挙での一番の思い出は、なんといっても速報です。
おぎゆか(荻野由佳)が速報で初めて1位になった年(2017年)のことは忘れられません。順に読み上げていくんですが、3位まで読んだところで、「1位 荻野由佳」と書いてあるのが視界に入りました。でも、驚きの表情を出してはいけませんから、必死に平静な顔を作りました(笑)。
でも、僕にはもうひとつの役目がありました。それは、開票当日のメンバーのケアです。早めに名前を呼ばれてしまって泣いている子、名前を呼ばれずに肩を落としている子が裏にはたくさんいました。その子たちにまず声をかけるんです。そんな子たちを慰めてから、ようやく僕はステージ側に回って、イベントを観ることができるんです。
一番記憶に残っている総選挙は、(渡辺)麻友が1位になった2014年かな。
日本レコード大賞の連覇もまたAKB48の名前を大きくした。2011年に『フライングゲット』で、翌年には『真夏のSounds good!』で獲得した。連覇を果たしたのは史上6組目(当時)だった。
湯浅 当日の僕の役割は、もし大賞を獲ったら、会場外に停めてある中継車まで走って移動して、音声のバランスを確認することでした。「大賞は……AKB48!」とアナウンスされると、すぐさま舞台袖から中継車まで嬉し涙を流しながらダッシュです。だから、泣きながら階段を下りてくるメンバーたちの感動的な姿は見ていません。歌唱中は音声の方と相談しつつ、泣いているメンバーのマイク音量を最大限まで上げてもらいました。
オリコン1位、レコード大賞受賞、紅白歌合戦出場……。AKB48は隆盛を極めていた。しかし、数々の輝かしい記録よりも「もっと嬉しかったことがありました」と湯浅氏は話し始めた――。
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