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2001年、制作営業総務室室長だった谷氏は、“ミスター吉本”とも称される木村政雄常務の命により、低迷している漫才の復興を目指した漫才プロジェクトのリーダーを任される。
「木村常務に言われるまで、漫才を立て直そうなんて考えたこともなかったです。もちろん漫才の低迷は気になっていたし、漫才ブームで売れたコンビも人気が落ちて、劇場にもお客さんが来ないという状況も心配でした。確かに漫才も大切ですが、タレントを売ってテレビに出す、そのタレントを使って番組を作るということも大事なことですからね。ただ木村常務に漫才プロジェクトをやれと言われて、『確かにそうや。やらないとけない。それが実現できたら幸せやな』と思いました」
当時、吉本興業内には漫才に力を入れようという空気は皆無だった。東京では1998年に「渋谷公園通り劇場」、1999年に「銀座7丁目劇場」が相次いで閉館。2001年に「ルミネtheよしもと」が開館するまで、東京で吉本の若手芸人が定期的に出演できる常設劇場は皆無だった。
「baseよしもとの前身『心斎橋筋2丁目劇場』は、若手芸人目当てのファンの女の子たちが詰めかけていました。毎日のように来るから、ネタを知っていて、お客さんのほうが先に次のセリフを言うなんてこともありました。若手漫才師も次から次へとネタを作っているわけじゃなかったですしね。
かつての漫才師言うたら大きな声で喋っていましたが、だんだんそうじゃなくなって、ボソボソっと喋る、“ダウンダウン風”をやる若手が多かった。それはダウンタウンと似て非なるもので、松本人志と浜田雅功だからできること。形だけ真似て立ち話風にアドリブで喋っても、2丁目劇場に来る若い女の子たちは笑いますけど、漫才として見たら全然なわけですよ。
それで劇場の支配人が漫才禁止令を出したんです。でも闇雲に漫才をするなと言ったわけじゃなかったと思うんです。お客さんは喜んでいるけど、ダラダラ喋るなと。もっと一生懸命やれということやったはずなんです。
漫才プロジェクトを進めるにあたり、若手から中堅、ベテランまで数十組の漫才師に面談を行い、漫才が置かれている現状をどう思っているのかヒアリングした。
「正直、ベテランは昔からのネタを同じようにやっているだけなので、創意工夫をしていないと感じていたんですが、話を聞いてみると、『ちゃんと、そういう場を与えてくれてないからや。だから、もっと仕事をくれ』という意見が多かったんです。劇場に出て、月に何本か営業があって、年に何回かテレビに出れば食べていけるので、不満はないのかと思っていたら、そうではなかった。『漫才が好きやから、漫才をやりたいんや』『漫才が好きやから、漫才師になったんや』と言うので、驚きでしたし、うれしかったですね。
若手は若手で、漫才なんて売れるための足がかりで、テレビでレギュラー番組を持って、ゆくゆくは自分の名前がついた冠番組をやるのが夢かと思っていたんです。大阪で売れた人間は、東京へ進出するみたいなところがありましたからね。ところがベテランと同じように、若手も『漫才が好きで、漫才をやりたい』という意見が多かったんです」
しかし、NSC(吉本総合芸能学院)に入学する生徒たちの志望動機を見ると、テレビタレントを目指す者が大多数を占めていた。漫才をやりたいという生徒は少数派だった。
「第1回M-1で決勝には、麒麟、フットボールアワー、キングコング、チュートリアルと芸歴2,3年の若手コンビが4組も残った。漫才が低迷している中でも、きっちり漫才をやっていた子たちはいたわけです。漫才プロジェクトを進めていく中で、劇場にもたくさん足を運びました。
baseよしもとを視察したとき、一際気になる芸人がいた。1992年結成の兄弟コンビ「中川家」。言わずと知れた第1回M-1の覇者だ。
「中川家のことは前から知ってましたし、漫才が上手いっていうのも知ってました。彼らは早くから頭角を現して、テレビでも活躍していたけど、剛の病気が原因で仕事を外されているというのも聞いていた。久しぶりに劇場で見たら、やっぱり実力がある。他にも面白い若手はいたので、特別に中川家をひいきにするっていうことはなかったですけど、M-1をやると決まったときは優勝候補になるやろうなと思いました」
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