【写真】『ふてほど』最終話にゲスト出演した成田昭次、小野武彦、宍戸開【3点】
スポンサーが撤退してしまい、資金不足になったことで、タイムマシンバスの運行は残り一回に。
どうやら、井上教授(三宅弘城)の手伝いのドサクサにまぎれて過去に来たようなのだが、令和に戻るバスに乗り遅れて昭和に残らざるを得ない状況に。最後はなぜか卒業式のサプライズ・ゲストとして登場して、パフォーマンスを披露する。1986年当時は日本に根付いていなかったラップのかっこよさに、中学生たちはもう夢中だ。明らかにここでは、ジャパニーズ・ポップの歴史が改ざんされている。
これまでのタイムトラベル系映画は、「過去に干渉してはいけない」というルールを遵守してきた。しかし宮藤官九郎が目指したものは、そういうものではない。このドラマでは、タイムパラドックスをガン無視して、令和的価値観・カルチャーをどんどん昭和に輸出している。それに感化されてしまった中学校時代の井上は、「科学者とメジャーリーガーの二刀流」という、斬新すぎる将来設計を語っているくらいだ。
今をより楽しい時代にするためなら、タイムトラベル系映画のお約束をいとも簡単に破壊してしまう。
昭和ガハハおじさんの代表例みたいだった市郎は、今回の体験を通して価値観に変化が生じる。ケツバットは当たり前だった“地獄の小川”は、“仏の小川”となったのだ。無礼講や飲みニケーションはもってのほか、女装が趣味だった校長をよってたかって攻撃する回りの神経も信じられない。令和に戻ったサカエもサカエで、杓子定規な令和的価値観に嫌気がさしている。
思い返してみれば、ウディ・アレンが脚本と監督を務めた映画『ミッドナイト・イン・パリ』(2011年)は「現代を生きる人間にとって、過去はいつもまぶしい時代に感じる」という映画だった。2010年のパリを彷徨う脚本家は過去を追い求め、1920年代にタイムスリップし、さらに1890年代へと遡る。
だが『不適切にもほどがある!』は、現代と過去を相対化することで、一方的にどちらかを称揚しようとはしない。どの時代だっていいトコロはあるし、悪いトコロはある。そしてお馴染みのミュージカル・パートになると、「寛容になりましょう」、「大目に見ましょう」と歌う。その安易な結論に違和感を持つ視聴者も少なくないかもしれない。
「1986年当時の表現をあえて使用して放送します」の注釈テロップで始まったこのドラマは、「2024年当時の表現をあえて使用して放送しました」というテロップでエンディングを迎える。価値観はいつだって流動的なものだという、強烈なメッセージ。2024年と1986年の38年というギャップを描いたこのドラマは、今から38年後の2062年には、どのような受け止められ方をするのだろうか。クドカンはそんな時代の射程を念頭に入れて、『不適切にもほどがある!』を書き上げたのだろう。かえすがえすも、物凄いドラマだ。
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