レベルの高い大きなクラブへ移籍し、大きな栄光を、年俸を手にする。個人事業主のプロサッカー選手にとって、その目標はごく自然なものだ。
それが当たり前だからこそ、サポーターはごく少数の“そうではない選手”に惹きつけられる。「バンディエラ(チームの象徴的存在)」。同じクラブで長期間プレーする選手のみに与えられるこの称号の価値は、クラブを熱く応援したことがある人間でないと分かりにくいものだろう。
そこで各クラブのバンディエラにスポットを当て、改めてその選手の凄さを伝える。第3弾は、2004年のプロデビュー以来サンフレッチェ広島一筋の、背番号6・青山敏弘(36)だ。
関連記事:Jリーグ好きなら知っておくべきバンディエラ【2】柏レイソル・大谷秀和

青山に影響を与えた2人の人物
サッカーで時折使われる「糸を引くようなパス」という表現。この言葉がこれほど似合う選手が、他にいるだろうか。青山の右足から放たれたボールは、多くの場合直線的に味方の選手へ届く。惚れ惚れするようなこのパスとゲームメイク力、またこういったタイプの選手には珍しいほどの運動量が持ち味だ。本人の努力、そして2人の人物との出会いが、キャリアに大きな影響を与えてきた。
1人は、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督。
青山はボランチで起用されるようになり、J1残留に大きく貢献。翌2007年も出場を重ねた。ただしこの年チームはJ2降格してしまう。しかしここでクラブも、ペトロヴィッチ監督もブレなかった。クラブは継続路線を選択し監督留任となり、そして監督は青山を起用し続け、見事1年でのJ1復帰を遂げた。それも、42試合で勝ち点100という圧倒的な数字を残して。
そしてもう1人が、佐藤寿人(2020年現役引退)である。2012年にはリーグMVPと得点王を獲得することになるストライカーの佐藤が、サンフレッチェに移籍してきたのは2005年。青山とは当初から親しかったわけではないが、ペトロヴィッチ監督のもと評価を高めた青山に対し、佐藤が積極的に要求するようになった。
これに応えるべく練習を重ねたことで青山は成長し、青山のパスに佐藤が抜け出し得点を決めるシーンは数知れず。

アップダウンを経て愛され続ける理由
年々存在感を強めた青山は日本代表に選出されるようになり、2014年のFIFAワールドカップ(ブラジルW杯)にも出場した。サンフレッチェはリーグ優勝(2012、2013、2015)、個人としてもMVP獲得(2015)と、輝かしいキャリアを築いていく。
2018年にも3年ぶりの日本代表選出となった青山。だがここから難しい時間が増えていく。右膝の怪我で離脱し、2018年のロシアW杯の出場を逃したのだ。2019年のAFCアジアカップには出場したが、こちらも怪我の影響で大会途中で離脱となった。
Jリーグ史に残る素晴らしい選手だが、決して完璧な選手ではない。サンフレッチェは2017年にはJ2降格が目前に迫るほど低迷し、青山のパフォーマンスも上がらなかった。フィジカル面だけの問題ではなく、メンタル面にも問題を抱えていた。日本代表に選ばれるような選手であっても、サッカー選手である前に1人の人間だ。
それでも青山は試合から逃げることはなく、プロの選手としてはパフォーマンスが上がらなくとも1人の人間として立ち向かった。
バンディエラとは長期間所属しているチームの象徴だが、ということは良い時期も悪い時期も存在する。糸を引くようなパス、怪我、J2降格、J1昇格、日本代表選出、W杯出場、苦しみながらも逃げない姿、素晴らしいファンサービス。そのすべてを、サポーターは体験してきた。青山もまた、それだけの期間サポーターの思いを背負ってきた。サッカーの美しさといえばプレーばかりが取り上げられるが、こうした関係性もまた美しさの1つだといえる。

独自の強みと精神力への期待
今2022シーズンのサンフレッチェは、開幕から5戦未勝利と出遅れた。けれど藤井智也や満田誠といった選手の台頭もあり、現在は中位まで順位を上げている。そのなかでボランチには運動量に長けた野津田岳人らが起用されることが増え、青山は1か月ほどリーグ戦の出場から遠ざかっている。
それでも現在のボランチ陣のなかで青山のゲームメイク力とパスの精度は図抜けており、キャプテンの力が必要になる場面はきっと訪れるだろう。年を重ねると、避けられない衰えというものが出てくる。
ジュビロ磐田の遠藤保仁が40歳を越えてもなおそうであるように、試合を陰で操るサンフレッチェ広島のバンディエラをはまだまだ観られるに違いない。青山敏弘のキャリアを振り返ると、難しい状況から這い上がってきたことは1度や2度ではないのだから。