【その日その瞬間】


 丸山圭子さん
 (シンガー・ソングライター/71歳)


「どうぞこのまま」(1976年)のヒットで知られる丸山圭子さん。大学で16年間、教壇に立ち、今もライブ活動を続けているが、嵐のようだった「どうぞこのまま」フィーバーに至るまでを語ってくれた。


  ◇  ◇  ◇


 今から思えば、ジェットコースターのような人生を送ってきた気がしています。その最初は何といっても歌を歌うようになったきっかけです。


 今はさいたま市になっていますが、私の出身は浦和(市)です。浦和第一女子高等学校、地元で一女といわれている進学校です。当時は1学年だけで12、13クラスもある高校でした。有名だったのは文化祭。県内外から2万人くらいが集まってきて、当時はすごく盛り上がったんです。姉も一女出身で、お茶の水女子大学に入って音楽をやったのですが、私も姉と3歳からピアノを習い、当時はフォークソングの時代だからギターも弾いていました。高2の文化祭では、女友だち3人で「サンデースプリング」というグループをつくって文化祭で歌ったのですが、大勢集まって、学校中がいっぱいになったんです。


 それで文化祭が終わり、グループのリーダーがニッポン放送の「VIVA唄の市」というオーディションを受けることになりました。結果は残念ながら不合格でしたが、「VIVA唄の市」から翌年、オーディションを受けないかというハガキが来ました。


■行きたい大学がなくて受けたオーディションが転機。

入賞は雪のおかげ?


 その頃の私は大学に進学するかどうかというタイミング。両親はともに先生で「大学に行って先生になったら」と言われていたけど、行きたい大学がなくて迷っていました。そんな時のお誘いでした。もっとも、歌といっても趣味に毛が生えた程度です。歌でやっていく考えはまったくありません。それでもせっかくなのでオーディションを受けることにしたんです。


 マルティーヌ・クレマンソーの「ただ愛に生きるだけ」という世界歌謡祭で優勝したステキな歌があります。変わったことをやって目立とうと考え、モノマネみたいな感じでフランス語で歌ったテープを送りました。


 それが運よく引っかかり、審査をしてらした方から「今はキャロル・キングやジェームス・テイラーがいる時代だから、オリジナル曲を歌うのが最先端。予選に出る時は自分で作った曲を歌った方がいい」とアドバイスされました。


 予選まであと10日に迫っていました。寝ても覚めてもという感じで考え、行きついたのが「しまふくろうの森」という曲。

しまふくろうは北海道に実在するアイヌの神様の鳥で絶滅危惧種。それを題材にした絵本に感動し、少年をふくろうに見たて、その子が村に降りて来るという幻想的な話を歌にしました。


 予選が行われたのは浦和の埼玉会館。その日は忘れもしない大雪。友だちにもたくさん来てもらい、会場はいっぱいになり、入賞することができました。大雪の日に北海道の雪をイメージさせる歌を歌ったことがアピールしたんだと今でも思っています。あれは絶対に雪のおかげです(笑)。



あのゾワゾワした感じが忘れられない

 次は全国大会。参加者は半分プロみたいにうまい人ばかり。私はあがり症なので手も足も震えっぱなしです。それでも必死に歌い、結果発表の時は終わったとホッとしながら、ステージの一番後ろにいました。そんな中で私の名前が呼ばれた。

入賞です。名前を呼ばれて誰のことという感じ。何かの間違いだろうと思いました。音楽を目指そうとしていたわけでもない普通の女子高生でしたからね。でも、それで人生が変わりました。私にとっての最初の転機です。


 入賞してエレックという個性的なレコード会社に所属することになりました。エレックでは「そっと私は」というアルバムを1枚出し、ラジオ関東で杏林製薬提供の10分の短い番組を月~金の帯で担当しました。この番組はおしゃべりしながら、レコーディングし、曲をかける番組で、やっている間にたくさん曲をためることができた。ケメがリーダーだったピピ&コットでは、ケメが抜けてから1年半くらい活動しました。それが19歳の頃。


 それから1976年にキングレコードに移り、アルバム「黄昏めもりい」を出します。

その中の1曲が「どうぞこのまま」です。この曲は天から降ってきたというか。ポール・マッカートニーも「強いインスピレーションの曲は一瞬でできる」と言っていますが、4、5曲同時に集中して作っている中で、ものすごく短時間にできた曲です。


 最初はアルバムとその中の1曲「ひとり寝のララバイ」がリリースされたのですが、10人中10人が「この曲いいね」と言ってくれた「どうぞこのまま」のシングルを3カ月後に出すことになって。それがものすごい売れ行きで。キャンペーンで積み上げておくとアッという間に完売です。


■地下街で歌っていると急ぎ足の人が立ち止まって振り返った


 東京駅の地下街のレコード店で歌った時は急いでいる人が足を止めて、こっちを振り返るんです。もうゾワゾワする感じ。そしてアルバムもシングルも目の前でアッという間に売れていく。それまではキャンペーンにどこへ行っても「お願いします」と頭を下げていたのが嘘のような光景が広がっていました。こんなことがあるんだと思いましたね。


 あれから50年。

今もいろんな方が「どうぞこのまま」をカバーして歌ってくれます。自分でもビックリです。


 ──78年に作曲家の佐藤準と結婚し、79年に長男を出産、93年に次男を出産後に離婚。長男は音楽家のサトウレイ。この間、子育てで歌手としては10年ほどブランクがあり、95年に卵巣嚢腫(良性)摘出手術を行った。


 ──その後、ヒューマンミュージックカレッジの講師、09年から16年間、洗足学園音楽大学の客員教授を務め、現在もライブ活動を続けている。


 声優でシンガー・ソングライターの仲村宗悟君はカレッジの教え子の一人です。7月には、洗足の教え子でショパン国際ピアノコンクールアジア大会で3位を受賞した穴水佑輔君とライブを行います。「どうぞこのまま」や「ウイスキーが、お好きでしょ」「Close to you」などのカバー曲、オリジナルのブギウギ「嘘つきブギ」も歌います。


(聞き手=峯田淳)


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