【死ぬまでにやりたいこれだけのこと】


 松井康真さん
 (フリーアナウンサー・ジャーナリスト=元テレビ朝日/62歳)


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 元テレビ朝日のフリーアナ、松井康真さんは南砺市のアンバサダーやタミヤ模型史研究顧問を務める。やりたいことは地元の活性化、そして先日亡くなられた田宮俊作会長の記念館の設立という。


 2年前、60歳定年を迎えた際に定年を延長するお話をテレビ朝日からいただきましたが、やりたいことがあったのでお断りして退職したんです。やりたいことは大きく3つあり、そのうち2つは地元に関すること。


 地元の富山県南砺市井波地区は木彫りの街ですが、全国的にはまだまだ無名なので「南砺市をPRしたい」と思い、退職後すぐに個人事務所を立ち上げ、登記を実家にしました。世田谷に住まいはありますが、地元に貢献するために2拠点の生活を開始。実家の3部屋を事務所に改築しました。


 南砺市をPRする取材をいくつか受けると、市から「観光大使になってくれませんか」とお誘いをいただきました。しかし詳しく聞いてみると観光大使制度は現実的には有名無実化していて、過去の大使のまとまった活動記録もないことがわかりました。


 そこで「他の自治体の成功・失敗例を調査してもっと中身のあることをやりましょうよ」と提案したところ、「松井さんのおっしゃる通りなので新たにアンバサダー制度を立ち上げます。その初代になってください」と。そうして初代アンバサダーの活動が始まり、このような取材では必ず南砺市の話をするように努めています(笑)。



高校、テレ朝の後輩を市長選で応援、当選した

 2つ目は選挙での応援です。6月末の富山の高岡市長選で当選した出町譲(新人)さんは私が通った高岡高校の2歳後輩で、テレビ朝日でも後輩なんです。


「報道ステーション」では責任者も務め、10歳以上年上の古舘さんに対しても時には「僕は違うと思います」としっかり意見を言える男でした。50代半ばで局を辞めて4年前に地元の高岡市で立候補した際は落選。彼は地方活性化について、番組取材で得た知識を山のように持ち、頭も良くて本も出していて私も期待していましたが、人前でのスピーチが下手で(笑)。


 その後、市議になって経験を積み、今年再び市長選に立候補。フリーになった私は高岡での市民集会の司会や応援演説をして行動をともにしました。誤解のないように言いますと、当選に私の知名度(?)が影響したなんてありません。富山県には今もテレビ朝日系列の局がなく、私がスピーチしても「ところであんた誰?」という感じでした(笑)。


 以上の2つは地元に関わること。



あまりのマニアックさに日本中から模型ファンがHPに集まり、輪が広まっていった

 3つ目がプラモデル。子供の頃からタミヤの模型が大好きで集めていました。退職前からつながりはあったんです。98年に「田宮模型歴史研究室」というホームページを個人で作りました。


 しかし、「田宮」と名乗るHPタイトルには許可が必要と思い、人づてにタミヤの方に尋ねてみましたら即OK。始めてからはコレクターとして集めた3000個ほどの模型を「この模型は◯年の発売で、こんな工夫がされてここがすごい」と細かく書いて毎日更新。


 私が所持しているのは昭和30、40年代が多い。中には半年で発売中止になった模型に「こんな理由でなくなった」と記したり。幼少期から調べた研究成果を発表する機会がついにきたという感じでした。サイトは今でもありますよ。


 あまりのマニアックさに日本中から模型ファンがHPに集まり、輪が広まっていきました。


 その時期、当時の社長の田宮俊作会長にご挨拶。それ以来、最新模型の話や私が入手した古いプラモについて話をさせていただける関係になりました。


 大きく関わる分岐点は2000年に「田宮模型全仕事」という本が出版される際、協力させていただいたこと。タミヤはつねに新しい製品を造ることに邁進しているので、過去の製品を振り返って調べ出すような社史編纂室がそもそもないんです。私は発売年月日やいろんなデータを調べて持っていたので、それまでもタミヤの方から「松井さんのHPは助かります」と言われていたんです。


 元々はあるフリーの編集長が責任者だったのですが、企画進行中にいろいろと問題が発生し、出版社から田宮会長に「どうしたらいいでしょう」と相談をした時に「テレ朝の松井さんに聞いてください。一番詳しいですから」と答えられたと。


 それで突然、私に出版社から「本のアドバイザーになってください」と電話が来て驚きました。その時は局に業務外の仕事願を提出して、本作りに関わりました。


 タミヤの歴史は2000年まででも半世紀あり、過去に数多くの製品が発売されました。フリーの編集長が作った製品リストは間違いや抜けが多くそこを指摘すると、「タミヤ本社にも資料がないそうで……」と言うので、「それは私が持ってますし、製品の現物も持っていますので大丈夫です」といった具合で大幅に修正を加え、個々の製品解説に関してもタミヤ本社からNGが出てしまい、私とタミヤの広報の方とで全面的に書き直しました。


 そんなふうにしてタミヤの公式な歴史本に携わるという体験ができました。その本やHPでやっていることを私は「模型考古学」と名付けています(笑)。


■肩書はタミヤ模型史研究顧問


 定年になる数年前から田宮会長に「テレ朝辞めたら、うちを手伝ってくれないか」と言われるようになったんです。あまりにも光栄な冗談だろうと思っていたら、次期社長に内定していた(昨年7月に37歳で就任)田宮信央さんからも「松井さん、お願いします」と言われ、お受けしました。「経営には一切関わりませんから、タミヤの模型史をしっかり作りたい」と希望を伝えました。


 いただいた肩書は「タミヤ模型史研究顧問」。

当面の実務は、静岡のタミヤ本社内にある歴史館のリニューアル。見学ができてタミヤファンなら誰もが感動するスペースなのですが、ここは実質20年手つかずになっていました。20年以上前にレイアウトされた方たちは退職され、アップデートされていない。しかも展示模型の解説文がないし社内に解説を書ける人がいない。


 木製模型から始まった“タミヤ初の木製模型”も本社に残っていませんでしたが、無事に入手しました。


 また、約15年前に田宮俊作会長自らが完成させた“タミヤ初のプラモデル戦艦大和”も初展示! タミヤの創業以来の歴史が初めて実際の製品とともに時系列に並びました。


 私が監修した解説文もパネルにして貼り出し、歴史館が今月リニューアルされたばかりです。でも、これは48年の創業から62年までの歴史。言ってみればタミヤのエピソード1です。


 そんな時に俊作会長が急逝されました。逝去を知った瞬間はショックで何も手につきませんでした。結果的にゲンダイさんの取材は亡くなられる直前に受けたことになります。

「私がやりたいことは本田宗一郎記念館みたいに田宮俊作記念館を造ること」と取材時に言っていましたが、まさかこんなに急に亡くなられるとは……。


 もちろん記念館の構想は具体的に会社にはなく、あくまで私の前からの夢です。もしも将来にタミヤから「ついにタミヤの博物館を造ろうと思います。できますか」と聞かれたら、「はい、この時のために準備していました」と言えるように、企画書や構想を準備するのが今の私のミッションだと思っています。


 ちなみに、今回のリニューアルにあたり、欠損が判明した30点ほどは私個人の所有物を展示しました。高額で取引される物も多数ありますが、「まさにこの日のために集めていた物、タミヤの歴史のためなら光栄の至り」と全部タミヤに寄贈させてもらいました。


 子供から大人までワクワクできる博物館をいつか実現させたい。その前に歴史館を充実させていくので、ぜひお越しください。


(聞き手=松野大介)


▽松井康真(まつい・やすまさ) 1963年3月、富山県出身。86年にテレビ朝日にアナウンサーとして入社。報道局記者を経て2023年に定年退職。現在はフリーで活動。

24年から株式会社タミヤ模型史研究顧問。


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