「字が綺麗なひとって賢そうな印象がありますが、林修先生によると『本当に頭がいい子ほど字が汚い』のだとか。どうなんでしょうか」と編集部からメールが飛んできたので、私(幼少時は字が綺麗と親からも先生からも褒められるよい子だったのに、大人になった現在、取材ノートは自分でも読めないのが困る)の思うところをお答えします。

林先生が説く「東大合格者トップ層は字が汚く、2番手グループは字が綺麗」には、私にもなんとなく実感があります。その昔、中学受験塾や美大受験予備校で国語や英語、現代文や小論文を指導していたころ、毎日のように生徒の小テストや作文を採点したり、授業中にノートを見回っていたりした私には一つ発見がありました。
「勉強の出来る子には2種類いる。粒ぞろいの綺麗な字を書く秀才と、本人にしか(本人にも)読めない謎の象形文字を書く天才の2種類が」。
さらにその後、彼らを見守るうちに分かったことがありました。それは
「字の綺麗な秀才タイプは、お手本をまねて紙上の空間のバランスを取りながら字を書くことができる。つまり『規範意識が強く、周りの秩序を重んじる』性格傾向があり、かつノートや答案を見る者(自分を含む)への強いプレゼン意識がある」、
そして、
「いわゆる悪筆で、もじょもじょと謎の線を書きつける天才タイプは、溢れるアイデアに手や言葉が追いついていかない傾向がある。そもそもノート自体が、のちに人が見るための記録ではなく紙上で書きながらリアルタイムに思考するためのツール。つまり勉強は他人のためでなく、あくまでも自分のため。考えること自体が楽しいという脳の持ち主で、その延長上で勉強ができてしまう」。
そして、確かに字が綺麗なほうが採点者(私)の印象はいいのだけれど、本質的な勉強のできるできないに字の綺麗さは全く関係ない、さらに言うなら「こんな考え方もあったのか!」と採点者が驚かされるような冴えた輝きを見せる生徒の字は大抵ヘタクソというのも、発見でした。
■日本の国語教育では「悪筆は恥」と刷り込まれる
私が小学生の頃(ええ昭和ですが何か)、親や他校の大人が見学にやってくるようなイベントが近づくと、先生たちは生徒に習字や作文を書かせ、せっせと壁に掲示したものです。
特に国語教育では、過去も現在も漢字の書き取りにおいて字のバランスや”トメ・ハネ・ハライ”の細部の徹底に膨大な時間と労力を割いています。「書く」に「道」がついて書道なる伝統アートが存在するように、「字は精神を表す≒美文字は美意識と教養の高さ≒悪筆は恥じるべきこと」という感覚が、きわめて根深く刷り込まれているのが、日本の国語教育なわけです。
今もその潮流は健在で、日本では「字を綺麗にかけること」が学校での評価のわりと大きな部分を占めているような気が。「字が綺麗で、机の周りもロッカーも綺麗で、給食も綺麗に食べられて、挨拶がきちんとできる子は先生のお気に入りの”いい子”」、いまだにそんな感じですよね。それは自分のセールスポイントを他者に向けて可視化する能力、つまりプレゼン能力に長けている子どもです。
逆に、発想とエネルギーの塊のような、「字はぐちゃぐちゃで身の回りは散らかしっぱなし、給食中も考え事で頭がいっぱいなので食物を口に運ぶこと以外気にしない、歩いている時も頭がいっぱいなので周りが見えず挨拶なんておざなり」、そんな子は自分の能力が先生たちにわかりやすく可視化されていないので、「勉強はできても、だらしないのが欠点」などと、場合によっては面倒な問題児扱いされてしまうことも。
中身でなくルックス、本質でなく外形が評価されるとは、実に形式主義的だなーとも思うのですが、まぁ日本はそういうアプローチが好きな文化なので、そうやって刷り込まれ、小綺麗にまとまるように教育される傾向があることは否定できません。でも小綺麗にまとまるとは、つまり”小さくまとまる”、小粒だ……と言えなくもないですよね。
■「字が綺麗?だから何?」だった米国
美文字の秀才が秀才にとどまるのは、ひょっとすると”教養”や”美意識”を追求する動機の中に、「他人から見られること」「他者からの評価」が拭えないからかもしれないな、などと思うことがあります。
大学生のとき、米国の大学のサマースクールでエッセイライティング(小論文講座)の授業を受けていました。私なりに衝撃を受けたのが、いかにも日本人らしくたおやかで控えめだけど英語能力はイマイチな他の女子学生が、典型的な日本の英語教育で習得した美しいスクリプト(筆記体)でエッセイを提出したとき、教授が「うわぁ、こんな繊細な筆跡は初めて見た!」と驚いてみせ、しかし内容が不十分だったのでその場で再提出を通告したのです。「綺麗だけど、内容にもっとエネルギーを使うべき」とばかりに。
ボストンの有名なアイビーリーグの大学でしたが、そこに通うアメリカ人たちの筆跡はどれも決して綺麗でないどころか、殴り書きに近いようなノートが散乱していました。ただ、書くスピードがとにかく速い。頭に浮かんだ先から書きつけているのがよく分かりました。大きな河を隔てた向こう岸には、もう一つ世界的に有名な理数系の大学があり、その学生たちの寮にも遊びに行きましたが、数学や物理を学ぶ彼らの部屋の中には、誰も読めないような数式(らしきもの)がのたくった紙が床じゅうに散らばっていました。天才たちの住処には美しく綴られた筆記体などなく、あるのは「彼らの思考を深めるために使われた文や記号や数式たち」でした。だからと言って、字が汚いほうが頭がいいなんてわけではないですよ! 「字の綺麗さ」にそれほど価値観をおかず、エネルギーも注がないということです。
日本では、美文字は「まともな大人のたしなみ」なのだとか。
【著者プロフィール】
コラムニスト 河崎 環
河崎環(かわさきたまき)/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川県育ち。桜蔭学園中高から転勤で大阪府立高へ転校。慶應義塾大学総合政策学部卒。欧州2カ国(スイス、英国ロンドン)での暮らしを経て帰国後、Webメディア、新聞雑誌、企業オウンドメディア、テレビ・ラジオなどで執筆・出演多数。多岐にわたる分野での記事・コラム執筆をつづけている。子どもは、20歳の長女、11歳の長男の2人。著書に『女子の生き様は顔に出る』(プレジデント社)。