現代の戦争は、物理的な国境を越え、人々の心の中へと舞台を移している。インターネットやソーシャル、ネットワーキング、サービス(SNS)を介して虚偽の情報を流布し、有権者や市民の意識を操作する「認知戦」が、民主主義国家にとって深刻な脅威となっている。
特に、人工知能(AI)の急速な発展により、偽情報の質と量は飛躍的に向上しており、従来の対策では追いつかない現状がある。

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 例えば、ある動画投稿サイトで拡散された短い動画がある。そこでは、完璧な中国語のナレーションとともに、日本に帰化した卓球選手が日本国内で激しい差別を受けているという内容が語られていた。具体的には、日本卓球協会が帰化選手に対して差別的な扱いをしており、練習拠点や遠征費用などの配分が不当に制限されているというものだ。さらに、スポンサー契約が協会側の独断で一方的に解除され、1億円もの資金を失ったという具体的な数字を挙げたエピソードまで盛り込まれていた。

 専門家はこの動画について、極めて巧妙に仕組まれた偽情報である可能性が高いと分析する。まず、ナレーションの中国語に地域特有のなまりが全くなく、あまりに完璧すぎる点が不自然だという。これはAIによる合成音声である可能性を示唆している。生身の人間が読み上げる場合、発信者が特定されるリスクがあるが、AIを活用することでその足跡を消しつつ、プロのアナウンサーのような信頼感を演出することができる。

 このような偽情報が制作される背景には、明確な狙いがあると専門家は指摘する。現在、他国の政権が国民の海外流出や日本への関心の高まりを警戒している場合がある。スポーツ選手のような影響力のある人物が日本へ帰化することを阻止するために、日本に行けば差別される、あるいは経済的に困窮するという恐怖心を植え付けようとしているのだ。
これは、有権者の投票行動を左右させる選挙妨害と同じ文脈にあり、対象者の心理をミスリードすることが本来の狙いである。

 しかし、これに対する日本の情報発信体制は、あまりに脆弱だと言わざるを得ない。外務省のホームページなどで日本語や英語による情報は公開されているものの、それが実際にどれほど外国人に届いているかという点には疑問が残る。公共放送による国際放送も、かつての短波放送時代のような影響力を維持できているとは言い難い。1980年代には、海外の学習者が日本のラジオ放送を熱心に聴き、生きた情報を得ていた時代があったが、現在のデジタル環境では、日本のコンテンツは他国の情報に埋没してしまっている。

 専門家は、日本国内で何が起きているか、どのような議論が行われているかという生きた情報を多言語で発信する努力が圧倒的に不足していると強調する。実際に、日本の国際放送が配信する動画の再生回数が数十回程度に留まっている事例も少なくない。これでは、巧妙なアルゴリズムを用いて拡散される偽情報を抑え込むことは不可能だ。

 G7諸国と比較しても、日本の遅れは顕著である。英国のBBCやドイツ、フランスの国際放送などは、多言語での情報発信に極めて力を入れている。彼らは自国の立場を伝えるだけでなく、多様な専門家の分析や議論を他言語で提供することで、世界中の人々が情報を収集する際のリソースとしての地位を確立している。これにより、偽情報が流れた際も、それに対抗する強力な真実の防波堤として機能しているのだ。


 日本が認知戦に打ち勝つためには、単に不適切な投稿を削除するといった受動的な対応だけでは限界がある。偽情報は量で勝負してくるため、運営会社への削除依頼には膨大な時間と労力がかかる。それよりも、正しい情報をそれ以上の量と質で、多言語によって絶え間なく発信し続ける攻めの姿勢が必要だ。

 かつて存在した国際情勢を深く分析する質の高い専門誌が、採算性の問題から休刊に追い込まれる現状も憂慮すべき事態である。こうした媒体は単なる出版物ではなく、国の知的財産であり、情報戦における武器でもある。おカネの計算だけで存廃を決定するのではなく、クラウドファンディングなどの新たな手法も検討し、維持していくべきだったと専門家は述べる。

 結論として、日本は認知戦という新たな戦争の最前線に立たされていることを自覚しなければならない。正しい情報を多言語で発信し、世界中の人々に日本の実態を正しく理解してもらうためのコンテンツ作りと、戦略的なプラットフォーム構築が急務となっている。これを放置すれば、日本の国際的な信頼や安全保障が根底から揺るがされることになりかねない。
【編集:af】
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