今回のコラムのテーマは、2022年の音楽ニュースまとめである。

筆者が注目した音楽ニュースだ。

タイミングの関係で、1本のコラムにはまとめきれなかった。
紅白歌合戦も近いので、どうしても今年中に触れておきたい出来事がある。
それらをまとめてミニコラムとしてお届けしたい。

2ページ 水木一郎
3ページ 加山雄三
4ページ 吉田拓郎
5ページ 石川さゆり
6ページ 原由子
7ページ 原田知世
8ページ Night Tempo
9ページ 藤井風

となっているので、興味のある人だけ読んでもかまわない。

それでは、まずは悲しいが時代を象徴するあの訃報から触れていこう。
アニメソングの帝王、力尽きる

12月12日、12月6日に水木一郎(1948年1月7日生れ)が肺がんのため亡くなった事が公表された。
享年74。

水木一郎、加山雄三からNight Tempo、藤井風まで20...の画像はこちら >>

(水木一郎 イラストby龍女)

1968年の歌手デビューから1971年以降アニメソング中心の歌手活動へ移行した。
アニメソング2年目の1972年に主題歌を歌って、歌手水木一郎の代名詞になったのが
永井豪原作の『マジンガーZ』(作詞:東文彦、作曲・編曲:渡辺宙明)のオープニングテーマ曲である。
ロボットアニメや特撮ものが数多く量産された70年代という時代に恵まれたこともあったが、生涯で1000曲以上の主題歌挿入歌を歌った。

筆者は、コサキン(ピン芸人の小堺一機と関根勤のユニット名)の一連のラジオ番組のリスナーなので、番組内で『マジンガーZ』と『バロム1』は散々聴いた。
コサキンの番組では、絶叫系の歌手の歌う楽曲が『コサキンソング』として取り上げられることが多い。

実は、水木一郎が歌ったアニメソングを英語版で他の歌手に依頼したことがあったらしい。
同じく番組で取り上げられることが多かったトム・ジョーンズ(1940年6月7日生れ)だったのだが、あまりに歌い方が独特であったらしく断ったらしい。

しかしこのことに見られるように、アニメソングは日本で生れた音楽ジャンルである。
恐らくこの功績で、水木一郎は
世界で一番知られている日本人歌手になったようだ。
その証明はWikipediaの他の言語版の数で分る。
昭和の日本で国民的大歌手と言えば美空ひばり(1937~1989)である。
その美空ひばりが27、水木一郎が92とおよそ3倍の数である。
歌手としての技量はともかく、いかにアニメソングが世界中で聴かれたか?
その証明にはなると思う。

しかし、多量の飲酒が美空ひばりの歌手生命を縮めたと同様に、全盛期の70~80年代にあまりに数多くの楽曲を歌ったことは、晩年の水木一郎の喉をかれさせてしまったかもしれない。
特に90年代以降は後輩の歌手や同時期にアニメソングを歌った
ささきいさお(1942年5月16日生れ)
アニメソングの女王堀江美都子(1957年3月8日生れ)とのイベントなど、多忙を極めた。

今年の7月に肺がんを公表した。
11月27日のよみうり大手町ホールの堀江美都子とのジョイントコンサートが最後のステージになった。

実は12月2日に『マジンガーZ』の作曲者渡辺宙明(1925年8月19日~2022年6月23日)の追悼コンサートに出演予定があったが、かなわなかった。

後身を育てることにも積極的で、「アニキ」との愛称で呼ばれた偉大な歌手は、最後までステージにこだわったそうである。

ちなみに、筆者が一番好きな水木一郎の歌は『ルパン三世 愛のテーマ』(作詞:千家和也、作曲:大野雄二)である。

お疲れ様でした。
あらためてご冥福を祈ります。
加山雄三がコンサート活動から引退。彼が与えた影響とは?

加山雄三 (1937年4月11日生れ)が、コンサート活動から引退した。
恐らく公式で演奏を披露する最後のステージは、紅白歌合戦になるだろう。

水木一郎、加山雄三からNight Tempo、藤井風まで2022年の日本の音楽シーンまとめ(40代以上向け)!

(加山雄三 イラストby龍女)

元気が売りの「若大将」だったが、恐らく引退の直接的な原因は2019年11月の脳梗塞と2020年の8月の小脳出血と続けて脳の病気を発症したこと。
その後のリハビリの結果、元々の基礎体力がしっかりしているので大丈夫にはみえた。
タレントとしてのイメージから、ある程度元気な内に芸能活動を退く決意を固めたのだろう。

さて、簡単に加山雄三のこれまでの功績を音楽を中心に振り返ってみよう。

彼は1950年代以降のいわゆる日本のポップスに一時代を築いた。
特に日本のロックの歴史では重要人物にあげても良いのではないか?
ロックン・ロールの帝王エルヴィス・プレスリー(1935~1977)の2歳年下。
ビートルズのジョン・レノン(1940~1980)の3つ上という中間の世代であるというのが重要だ。
日本では、エルヴィス・プレスリーに影響を受けた歌手がロカビリーブームを起こした。
ビートルズに影響を受けたバンドマンがGSブームを起こした。
その中間に、アメリカワシントン州シアトル出身のインストゥルメンタル・ロックのザ・べンチャーズのコピーバンドが数多く出た。
これをエレキブームという。

加山雄三は、当時東宝の専属俳優でもあり、出身大学の慶応義塾の後輩達とバンドを組んだ。
(ちなみにGSブームの一翼を担った慶応の後輩バンドが、加瀬邦彦とザ・ワイルド・ワンズである)
それが結実した映画が加山雄三が主演する若大将シリーズの第6弾
『エレキの若大将』(公開1965年12月19日)である。

この中で、加山雄三の代名詞になる楽曲『君といつまでも』が出てくる。
作曲は、加山雄三が作曲するときに用いるペンネーム、尊敬する作曲家団伊玖磨(1924~2001)と山田耕筰(1886~1965)を合わせた
弾厚作で
作詞は、1963年まで東宝の文芸部に所属していた
岩谷時子(1916~2013)である。

水木一郎、加山雄三からNight Tempo、藤井風まで2022年の日本の音楽シーンまとめ(40代以上向け)!

(岩谷時子 イラストby龍女)

岩谷時子は
越路吹雪(1924~1980)のマネージャーとして、彼女が歌うシャンソンの訳詞から作詞家人生が始まった。

そして、越路吹雪以外の作詞も数多く手がけていくことになるが、越路以外で名コンビと言えるヒット曲を連発したのは加山雄三である。

加山雄三は、12月17日放送の『ミュージックフェア』に出演した際にも、岩谷時子への感謝を述べているが、ラストに最後のシングルとして発表した
「海が男にしてくれた」も、岩谷時子が遺した詞に一部手を加えて仕上げた楽曲である。

加山雄三は、ビートルズが1966年に来日コンサートを開き、熱狂的なファンに囲まれてホテルに缶詰にされている時、すき焼きを持ち込んでご馳走した。
関根勤のものまねでVSOP(ヴェリー・スペシャル・ワン・パターン)と、大食いを強調された。
地井武男の『ちい散歩』(2006~2012)の後番組
『若大将のゆうゆう散歩』(2012~2015)では、船の設計図のような正確すぎて面白くないスケッチを披露する。
独特のマルチな才能をみせた加山雄三は
シンガーソングライターのパイオニアで、二世タレント(父は俳優の上原謙)のはしりでもある。
ツッコミどころ満載の人物を見られなくなる寂しさはある。
これまでどうもありがとうございました。
吉田拓郎、引退

吉田拓郎(1946年4月5日うまれ)が
アルバム『ah-面白かった』を最後に引退する。

水木一郎、加山雄三からNight Tempo、藤井風まで2022年の日本の音楽シーンまとめ(40代以上向け)!

(吉田拓郎 イラストby龍女)

先日パーソナリティーを務める『オールナイトニッポンGOLD』も最終回を迎えた。

筆者は吉田拓郎の30歳年下で、シンガーソングライターが当たり前の音楽シーンしか知らないので、どれだけ偉大かは肌感覚では分らない。
しかも、ファン層のコアの世代の両親は、同時代のフォーク勢で言うと
かぐや姫や井上陽水のファンであったので、自宅にはアルバムは1枚もない。


それでも、吉田拓郎を取り上げるのは筆者の世代との接点として
Kinki Kidsと共演した音楽バラエティ番組
『LOVE LOVE あいしてる』(フジテレビ、1996年~2001)の存在が大きかった。

この番組の中で、Kinki Kidsを始めとする後輩ミュージシャン達が、わがままオジサンに振り回される様を目の当たりにして
「そうか、こんなんだから全盛期はTVと相性悪かったのね」
と70年代と80年代前半までのTV出演の少なさに納得させられたのである。

大物ミュージシャンが、TVではなくラジオを中心に出演してプロモーション活動をする。
この形を作った存在としても、先駆けだった。

ラジオで聴いた吉田拓郎の発言を聴いてイメージを膨らませる。
TVで共演して吉田拓郎をツッコみまくる明石家さんまを観ていると、こういう感じが吉田拓郎ファンなのか?
と思ったりもした。

しかし、筆者が吉田拓郎の偉大さを実感した体験は
2005年夏に家族と遊びに行った北海道の札幌のススキノで
『居酒屋 拓郎』の看板を見かけたときだった。
こうした飲食店はターゲットは吉田拓郎ファンなので、限られた客層でも商売になって店が続いているのはスゴいことである。
石川さゆり (1958年1月30日生れ)

水木一郎、加山雄三からNight Tempo、藤井風まで2022年の日本の音楽シーンまとめ(40代以上向け)!

(石川さゆり イラストby龍女)

筆者は50周年を迎えたアーティストとして
松任谷由実を取り上げた。
荒井由実として『返事はいらない』のシングルが発売されたのが、1972年7月5日。

翌年の1973年の3月25日に発売された『かくれんぼ』でデビューしたのが、石川さゆりである。
当時はホリプロ所属で、デビューのきっかけになったTV番組が『ちびっ子歌謡大会』で、他の二人(山口百恵・森昌子)は『スター誕生』の違いはあるが、当初は「ホリプロ三人娘」として売り出そうとしていたアイドル歌手だった。


しかし、山口百恵と森昌子はすぐにヒット曲を連発していったが、すぐに売れなかった。
二葉百合子(1931年6月23日生れ)に弟子入りしたり、日本舞踊を習得するなど芸を磨いた雌伏の時を経た。
1976年のアルバム『365日恋もよう』からシングルカットされた
『津軽海峡・冬景色』(作詞:阿久悠、作曲:三木たかし)が1977年に大ヒット。
ここから演歌歌手としての快進撃が始まる。

もう一つの代表曲と言えば『天城越え』(発売1986年7月21日。作詞:吉岡治、作曲:弦哲也)である。
この楽曲は、松本清張の小説『天城越え』と関係があるのかと思ったら、あまり関係がないようである。
しかし、歌詞の内容は行間から男女のドロドロした物語が透けてみえてくる。
こうした物語がある歌詞の世界を歌わせたら、石川さゆりは天下一品なのである。

サントリーの角瓶ウィスキーのCMソング
『ウイスキーが、お好きでしょ』(発売1991年2月21日。作詞:田口俊、作曲:杉真理)
他のアーティストもカバーしていてCMは続いているが、石川さゆりのヴァージョンが一番印象的だったはずだ。
椎名林檎とコラボした『暗夜の心中立て』/『名うての泥棒猫』(発売2014年4月2日)
着物が似合って妖艶な女性という共通点で石川さゆりのキャラクターと合っていた。

ルパン三世PART4のエンディング『ちゃんと言わなきゃ愛さない』(発売2015年10月21日。作詞:つんく、作曲:大野雄二)
峰不二子を彷彿とさせる石川さゆりの歌声がアニメ映像と楽しめる出来になっている。
石川さゆりは、妖艶な女性の物語を語る歌手としての定評を得ている。

実は、芸能界デビューとなったのは、歌手としてではなくフジテレビの秋のドラマ『光る海』(1972年)での出演だ。
本名は石川絹代で、ドラマのプロデューサーの岡田太郎(1930年生れ)が「さゆり」と命名したそうだ。
ちなみに岡田太郎とは、あの大俳優・吉永小百合(1945年3月13日生れ)の夫である。

石川さゆりは、俳優としても近年は大河ドラマ『麒麟がくる』(2020年)で主人公明智光秀(長谷川博己)の母・牧を演じている。

これからもどんなミュージシャンとコラボするのか?
妖艶な女性を演じる歌手、石川さゆりに注目である。
原由子が31年ぶりのアルバム『婦人の肖像』を発売

水木一郎、加山雄三からNight Tempo、藤井風まで2022年の日本の音楽シーンまとめ(40代以上向け)!

(原由子 イラストby龍女)

国民的スーパーバンドサザンオールスターズのキーボード・ヴォーカル担当の
原由子(1956年12月11日生れ)が『MOTHER』(発売1991年6月1日)以来、31年ぶりのオリジナルアルバム
『婦人の肖像』を10月19日に発売した。

この発売を前後して、宣伝も兼ねて各音楽番組に出演した。
筆者が観ていて特に面白かったのは、関ジャニ∞の冠番組で、本格的に音楽を分析するバラエティ番組
『関ジャム』の原由子特集だった。
この特集で、単なる楽器演奏者だけでなく、サザンオールスターズの楽曲のイントロやアレンジを手がけていたことが分って凄い人だったんだなあと感心した。

筆者が以前から好きなエピソードは、夫になる桑田佳祐と青山学院大学のサークル時代に意気投合した理由がどっちも名ギタリストでヴォーカリストの
エリック・クラプトン(1945年3月30日生れ)が好きなことだった。
新アルバムの『婦人の肖像』の5曲目に収録されている
『スローハンドに抱かれて(Oh Love!!)』(作詞:桑田佳祐、作曲:原由子)では、「ミスター・スローハンド」ことエリック・クラプトンをモチーフにしている。

過去の彼女のリードヴォーカルで好きなのが
サザンオールスタ-ズのアルバム『タイニイ・バブルス』に収録されている
『私はピアノ』(作詞・作曲:桑田佳祐)である。
歌詞の中に登場するミュージシャンは
名ギタリストのラリー・カールトン(1948年3月2日生れ)
ピアニスト・ヴォーカリストで「ピアノマン」の別名を持つ
ビリー・ジョエル(1949年5月9日生れ)である。
大好きな音楽を作り続けているひたむきさ、過去のミュージシャンに対する敬意がある。
桑田佳祐と原由子は筆者にとって憧れの夫婦である。
原田知世がデビュー40周年

水木一郎、加山雄三からNight Tempo、藤井風まで2022年の日本の音楽シーンまとめ(40代以上向け)!

(原田知世 イラストby龍女)

原田知世(1967年11月28日生れ)がデビュー40周年を記念して
3月23日にオリジナルアルバム『fruitful days』
10月5日にベストアルバム『原田知世のうたと音楽』
を発売した。

真田広之に会いたくて1982年の『伊賀忍法帖』のヒロインオーディションを受けた。
選ばれたのは、渡辺典子(1965年7月22日生れ)だが、最終選考に残った。
映画のプロデューサーの角川春樹の目に止まり、特別賞を受賞。
フジテレビのドラマ『セーラー服と機関銃』で主演デビュー。
この時自ら歌った『悲しいくらいほんとの話』(作詞:来生えつこ、作曲:来生たかお)がデビュー曲になった。
この曲は作詞作曲は映画版『セーラー服と機関銃』の主題歌と同じ姉弟コンビである。
原田知世は、角川春樹がプロデュースする映画の看板俳優として薬師丸ひろ子(1964年6月9日生れ)・渡辺典子と並んで、角川三姉妹と呼ばれた。

原田知世の人気を決定づけた映画は『時をかける少女』(1983年7月16日公開。大林宣彦監督)である。
主人公の芳川和子を演じた。
この時に主題歌として歌った『時をかける少女』(発売1983年4月21日。作詞作曲:松任谷由実)は大ヒットした。
学園ドラマであり、タイムリ-プモノの走りのような作品である。

この映画は後世の映画人にも多大な影響を与えた。
細田守監督の同名のアニメ(2006年)があるがこれは後日談で、主人公は芳山和子から姪の紺野真琴(声・仲里依紗)に変わっている。
更に実写としてリメイクされた『時をかける少女』(2010年)でも主演は原田知世と同じ長崎出身の仲里依紗であるが、設定は芳川和子の娘・あかりとなっている。
しかし、この時母親の和子を演じたのは、原田知世ではなく、安田成美である。
1983年の映画は原田知世にとっては何だったのかと考えてしまう。

1987年に角川春樹事務所を辞め、姉の原田喜和子と個人事務所を開く。
1990年代に入ると俳優業と並行して、音楽活動に比重が大きくなったそうだ。

筆者が原田知世の音楽活動で特に印象に残っている時代はこの90年代である。
ムーンライダースの鈴木慶一(1951年8月28日生れ)が10枚目から12枚目の三作連続アルバムをプロデュースした。
次はスウェーデンの音楽プロデューサーのトーレ・ヨハンソン(1959年11月6日生れ)が手がけた。

この二人のプロデューサーは、「渋谷系」と呼ばれる音楽の代表的な存在でもある。
筆者はこの頃高校から大学に行く頃の時代だったから熱心に聴いていたかと言えばそうではない。
渋谷で中古の洋楽アルバムを買いあさっていた若者であった。

筆者にとって、原田知世とは近くて遠い不思議な存在の人である。
シティーポップスブームの牽引者の一人、DJ Night TempoがTV出演

水木一郎、加山雄三からNight Tempo、藤井風まで2022年の日本の音楽シーンまとめ(40代以上向け)!

(DJでシティポップスブームの牽引者の一人、Night Tempo イラストby龍女)

すっかりYouTubeが、筆者が最も触れる映像メディアになってしまった。
その中で、2010年代前半の音楽のマイブームは昭和歌謡で、2010年代後半はシティポップスであった。
2016年頃から、恐らく筆者が最も聴いた日本の歌は
竹内まりやの『プラスティック・ラブ』で間違いないだろう。

しかし、筆者はふと思う。
これは自分の意思で選んだ音楽だろうか?

この楽曲の不思議な魅力に惹かれた原因の一翼は、間違いなく韓国人DJの
Night Tempo(1986年生れ)が関係している。

TBSラジオの『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』か後番組の『アフター6ジャンクション』の中で名前を知ったような記憶がある。
不定期番組だが、毎回楽しみにしている星野源のNHKの音楽バラエティ番組
『おげんさんといっしょ』2022年8月18日の放送を観ていたら、思わず画面の前で大声で叫んでしまい、母親に叱られた。
名前だけしか知らなかったNight Tempoを初めて観られたからである。
「こんな顔しているんだ…」
アニメの登場人物かと思っていたら、実在の人物だと知って驚いたような心持ちである。

これはおげんさん一家の一員の隆子(藤井隆)が関係している。
鈴木杏樹が俳優デビュー前でロンドンで歌手活動したときのデビュー曲『We Should be Dancing』を、鈴木杏樹と藤井隆のデュエット曲にリメイクしたときに編曲に参加したからだ。
ほぼ初めて、藤井隆と鈴木杏樹がTVでパフォーマンスするに当たって、共演することになったのだ。

そしてその放送から3ヶ月経った11月15日。
『マツコの知らない世界』に「80's Japanese POPSの世界」の案内人として、Night Tempoがゲストとして登場した。
ここで何故韓国の青年が日本のポップスに目覚めていくのか詳しく語られていく。
韓国には、数年遅れで日本のポップスがカセットテープを通じて伝わった文化が90年代前半に存在していたことを知り、不思議な感覚を味わった。

そしてこの番組の山場は、後半のサプライズゲスト、菊池桃子(1968年5月4日生れ)の登場で最高潮になる。

その前段階として、Night Tempoの部屋の様子が撮影されている。
杏里のアルバムのカセットテープが同じ作品が何本も飾ってあるのにもマニア感が大きかったが、ポスターがやたらと菊池桃子が多いことに気づく。

こ、これは、菊池桃子はNight Tempoのミューズだな!
(ちょっと、表現をソフトにしてみました)

今後は、菊池桃子がかつてやっていたあのバンド、ラ・ムーのヴァージョン2.0をやりたいという野望を語った。

すでにAKB48の9月公演の楽曲提供をしていて、オリジナル楽曲を制作する態勢にうつったようだ。
Night Tempoの快進撃はまだまだこれからのようである。
藤井風が世界中でヒット中

水木一郎、加山雄三からNight Tempo、藤井風まで2022年の日本の音楽シーンまとめ(40代以上向け)!

(藤井風。2021年の無観客ライブの写真から引用 イラストby龍女)

Night Tempoに続いて、YouTubeがらみの話になる。
藤井風(1997年6月14日生れ)である。
2010年の12歳の頃から動画投稿を始めた彼は、まさにYouTubeの申し子である。
現在、チャンネル登録者数は243万人で、筆者も登録している。
既にトップYouTuberの仲間入りをしているが、まだまだ伸びて欲しい。

YouTubeによって世界的なスターになった人物と言えば、真っ先に
ジャスティン・ビーバー(1994年3月1日生れ)を思い出す。
しかし、藤井風がその時代と大きく異なるのは、2020年5月20日に初めてのアルバム
『HELP EVER HURT NEVER』を出して、ツアーに出ようにもコロナ禍まっただ中で、ツアーは全公演中止にせざるを得ない状態になっていたことだ。

なんとか2021年は、声を出さない等の条件下でコンサートツアーは再開された。
9月4日、神奈川・日産スタジアムで無観客生中継ライブ「Fujii Kaze "Free" Live 2021 at NISSAN stadium」が開催された。
YouTubeで生配信されたこの動画は、アーカイブス化されて現時点では942万回再生されている。
イラストはこの時の模様の写真を元にしている。

TV的に藤井風が盛り上がったのは、2021年の紅白歌合戦出場だろう。
YouTubeでよく見かける岡山の自宅で撮影されたVTRだと思っていたら、会場に登場して演奏して見せた。
しかも、紅組のトリのMISIAに提供した『Higher Love』でピアノ演奏とコーラスを担当して結局紅白歌合戦の印象を全てかっさらった。
今年の紅白は、藤井風は特別枠で出場するそうだ。
どんな出方をするのか楽しみだ。

藤井風のYouTubeチャンネルを観たことがない層にも、TVにアピールしていた。
このコラムでも取り上げた2021年の連続ドラマにじいろカルテの主題歌『旅路』は、2022年3月23日に発売された2枚目のアルバム
『LOVE ALL SERVE ALL』に収録されている。
ドラマ自体は2021年の初頭に放送されたので、先行シングルだったことになる。

2枚目のアルバムの1曲目に収録されている『きらり』はHonda「VEZEL」のCMタイアップ曲である。

9月にシングルカットされた『damn』はYouTubeチャンネルで公開されたPVのラストの藤井風の表情が最高なので、検索して欲しい。

筆者がチェックしている音楽系YouTubeチャンネルが
「みのミュージック」である。


このトピックスを参考にした。
まず現象として、タイから人気が爆発したと紹介している。
そういえば筆者は思い出した。
2020年以前のインバウンドが盛んだった時期、映画を観に新宿を歩いていた。
アジアからの観光客は圧倒的に中国が多く、韓国も多かった。
3番目に多かったのはタイからの観光客だったのだ。

タイのドラマも盛んに輸入されているので、経済文化の発展のすごさを実感した。

かつてスウェーデンのポップグループのABBAが世界的スーパースターになったきっかけがオーストラリアからのブレイクだった現象を思い出した。

別のコメントも取り上げていて「アニメソングでなく売れているのが意外」と言った主旨である。

筆者が今回のコラムの最初に水木一郎、最後に藤井風を置いたのはこの動画がきっかけだった。
このコメントについての賛否はともかく、世界に日本の音楽が伝わる手段が明らかに変わった、時代が変わったことを実感した。
過去への愛惜と、未来への期待を胸に来年も様々な人を追いかけていきたい。

それでは良いお年を

※最新記事の公開は筆者のFacebookTwitterにてお知らせします。
(「いいね!」か「フォロー」いただくと通知が届きます)
編集部おすすめ