(佐藤浩市の宣材写真から引用 イラストby龍女)
今回取り上げるのは、8月25日公開の『春に散る』で横浜流星とW主演を務めるからである。

(『春に散る』の1シーン イラストby龍女)
更に大河ドラマ『どうする家康』第33回『裏切り者』(8月27日放送)で
真田昌幸(1547~1611)として初めて登場するからだ。
佐藤浩市は1976年生れの筆者とは16歳も上の年齢だが、デビューした年が
1980年だ。
ちょうど筆者が物心ついた時からキャリアを始めているので、若い頃から今までの変化がリアルタイムで分かる。
俳優として超売れっ子なので、作品数も多く全部見切れていない。
筆者が印象に残った作品だけでもピックアップして紹介しながら、
今回は俳優同士の親子関係をテーマに考えていこう。
佐藤浩市の父親は名優三國連太郎(1923~2013)である。
佐藤浩市の息子の寛一郎(1996年8月16日生れ)は祖父の死後の2017年に俳優デビューしたので親子三代での共演作はない。
佐藤浩市と寛一郎の共演作は数本ある。
『一度も撃ってません』(2020年7月3日公開)では、主人公の売れない小説家・市川進(石橋蓮司)の担当編集者・児玉道夫が佐藤浩市、部下の五木要が寛一郎である。
『せかいのおきく』(2023年4月28日公開)では、主人公の松村きく(黒木華)の父親の浪人・源兵衛が佐藤浩市、おきくが好きになる元紙屑拾いの下肥買いの中次が寛一郎である。
昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、上総広常は佐藤浩市、公暁が寛一郎だ。
しかし、関東の実力者・上総広常は前半で暗殺され、二代将軍頼家の次男・公暁は叔父の三代将軍実朝(柿澤勇人)を暗殺した後、三浦義村(山本耕史)に殺される役なので一緒の場面はない。
三國連太郎は、筆者の祖母と同い年で、青春を戦争とともに過ごした世代である。
高度経済背長期に育った佐藤浩市とはかなり世代間ギャップがあったはずだ。
それを反映したかのような共演作もあるので、是非読んでいただきたい。
その前に、何故親子なのに名字が違うのか?
三國連太郎とは芸名である。
佐藤浩市は本名である。
次の頁では、何故三國連太郎という芸名でデビューしたのか?
三國連太郎の俳優としてのキャリアがよく分かるので、その理由を紹介しよう。
三國連太郎の本名は、佐藤政雄である。
生い立ちは非常に複雑である。
丁寧に説明してしまうとそれだけでノンフィクション小説になってしまう。
未婚の母親が妊娠したまま結婚した別の男性が育ての親で、電気工事の渡り職人だった。
一家で引っ越した父の故郷の静岡県の土肥町(現・伊豆市)で旧制豆陽中学(新学制では高校に相当する)2年生で中退するまで過ごす。
中学時代は水泳部だったそうだ。
旧制中学を中退した後は各地で職を転々とする。
故郷に徴集令状の赤紙が届くと、兵隊になりたくないと逃亡するが憲兵に捕まり静岡歩兵34連隊に配属された。
激戦の中国前線へ送り出され、熱を出して10日間意識不明だったので死んだと思われた。
むしろにかけられ、焼き場に入れられる寸前で意識を取り戻したという。
その連隊で生き残ったのは20~30人とされているので、非常に幸運だったようだ。
終戦後、中国の収容所から帰国するには妻帯者が有利だったので、同じ佐藤姓の女性と1946年に偽装結婚をして帰国した。
その女性とは1948年に離婚した。
1949年に鳥取県倉吉で満蒙開拓団(大日本帝国の植民地、中国東北部にあった満州国の農地を開拓するために結成された団体)の知り合いのツテで、農業指導員になり地元の資産家の娘と2度目の結婚をした。
1950年に闇商売をして単身上京をしていた時の出来事である。
倉吉の写真館の主人が写真を松竹の「あなたの推薦するスター募集」に送っていた。
東銀座で歩いていたところをその写真を覚えていた松竹のプロデューサーの小出孝にスカウトされた。
松竹が誇る映画監督の一人木下恵介(1912~1998)は、小津安二郎とのコンビで知られる脚本家の野田高梧との共同脚本作品
劇作家岸田國士(1890~1954)が原作の小説
『善魔』のある重要な役にピッタリな俳優がいなくなって困っていた。

(木下恵介 イラストby龍女)
当初決まってた岡田英次(1920~1995)は左翼系劇団の新協劇団所属で、1950年に公開された今井正監督の『また逢う日まで』(1950年3月21日公開)で日本映画初のキスシーンをした俳優としても有名である。
ところが今井正監督は日本共産党に入党していた。
そのあおりで、日本共産党支持者とみられていた岡田英次を起用出来なくなってしまった。
朝鮮半島でアメリカとソ連・中国の代理戦争の朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発した。
GHQの指導の下、吉田茂政権は6月6日から本格的な共産党員と支持者の公職追放の動きレッドパージを開始した。
岡田英次は彫りの深い容貌で当時「和製ジャン・マレー」と呼ばれていた2枚目でもある。
ジャン・マレー(1913~1998)とは詩人で映画監督だったジャン・コクトー(1889~1963)の恋人で、『美女と野獣』(1945)の野獣役を始め数々の名作に出演した俳優である。
岡田英次は後にフランス合作映画『二十四時間の情事』(1959)に出演するなど国際的にも活躍した。
筆者は岡田英次が出た映画では、岸田國士の娘の俳優・岸田今日子と共演した安部公房原作の『砂の女』(1964)位しか見ていない。
日本共産党支持者は高学歴の学生が多かったので、余計日本国政府は危険視している面もあった。
三國連太郎の若い頃は慶応大学卒業の岡田英次に似た知性的な2枚目だったのである。
『善魔』のあらすじはこうだ。
上司の命令で、政治家のスキャンダルを追っていた若い新聞記者。
彼は取材先として離婚寸前の政治家の妻の妹に出逢い、恋におちるが彼女は当時の不治の病結核を抱えていた…。
と言う社会派ラブストーリーである。
テーマは人は正義のために時に悪魔のような行動を起こすと言うことで「善魔」だそうだ。

(『善魔』の三國連太郎 イラストby龍女)
この作品で演じた若き新聞記者の役名が三國連太郎だったので、そのまま芸名にした。
三國連太郎は、清濁併せのむ知的な男の役を数多く演じることになるがその原点となったようである。
ただし、ずぶの素人で演技は噴飯物だったので、木下恵介のアドバイスで3ヶ月ほど俳優座に出入りして演技の指導を受けたそうだ。
デビュー作の悔しさが、三國連太郎がその後に役の為なら肉体をいじることも厭わないようになったきっかけをつくった。
三國連太郎が3度目の結婚の時に産まれたのが、佐藤浩市である。
ところがその頃に三國連太郎は『飢餓海峡』(1965)の撮影中に私生活で大事件を起こしてしまった。
太地喜和子(1943~1992)と恋におちてしまったのだ。
太地は俳優を辞め同棲したものの、『飢餓海峡』で左幸子が演じた娼婦の八重に嫉妬して、同棲生活は3ヶ月ほどで破綻してしまった。
三國連太郎の方は「あなたの体にひれ伏すことがイヤだった。僕は臆病者ですから、のめり込む危険を絶対に避けたかったんです」
と十年後の週刊誌の対談で答えている。
一方で「十年後には妻と別れる」と太地の親と交わしていた約束を守って、3回目の離婚をした。
こうした経緯があって、思春期の佐藤浩市は父親とは疎遠になった。
一方で息子と疎遠になってしまった三國連太郎は1972年に『岸のない河』と言う自主映画を製作した。
パキスタン、アフガニスタンでロケをした作品だが未完成である。
家庭を崩壊させた男を三國連太郎自らが演じている。
当て所のない旅に出かけ、自己を再発見しようとする。
この幻の映画を完成させようとするドキュメンタリーがWOWOWで2009年に放送された。
これは筆者も観ている。
小さい頃は三國連太郎は息子の浩市を撮影所へ連れてみせていた。
佐藤浩市は自然と俳優に対する憧れが芽生えたのだろう。
しかし表向きは俳優を積極的になりたいといった態度は示していない。
佐藤浩市は父のマネージャーのすすめで渋々受けたオーディションに合格した。
1980年にNHKドラマ『続・続・事件』でデビューした。
映画デビュー作になる『青春の門』でブルーリボン賞新人賞を受賞した。
原作者の五木寛之の分身、伊吹信介を演じた。
続編の『青春の門・自立編』では初の映画主演を務めた。
三國連太郎とは1986年の『人間の約束』で共演しているが、佐藤浩市は部下の刑事役で少ししか出ていない。
本格的な共演となったのはビックコミックスピリッツで連載されていた長寿連載のグルメ漫画の実写化
『美味しんぼ』(1996)である。
1988年から西田敏行扮する万年ヒラ社員浜崎伝助
三國連太郎扮する上司である鈴木建設の社長鈴木一之助が日本全国で釣りを楽しむ
『釣りバカ日誌』が好評でシリーズ化して8年目になっていた。
これまで演技派だった三國連太郎は映画業界の中でドル箱スターの仲間入りをした。
三國は最初に所属した松竹を辞めてこれといった映画会社に所属しない俳優として問題児扱いを受けながらも映画業界で生き残ってきた。
晩年になって松竹と和解したのだろう。
これはまるで佐藤浩市との関係とよく似ていた。
『美味しんぼ』は小学館の青年漫画誌『ビックコミック』から派生した『ビックコミックスピリッツ』、『釣りバカ日誌』は『ビックコミックオリジナル』に連載されているので、権利関係がクリアで映画化のオファーがしやすかったのだろう。
監督は『釣りバカ日誌スペシャル』の森崎東(1927~2020)が務めることになった。
その流れの企画なので陶芸家で美食家の海原雄山役は三國連太郎と決まっていた。
台本を読んだ時に、息子で母方の姓を名乗り、確執を抱えている東西新聞記者の
山岡士郎役は佐藤浩市がふさわしいだろうと提案したのは、三國連太郎だと言われている。
邦画ファンが待ち望んでいた親子共演が実現した。

(『美味しんぼ』のポスターのリアート イラストby龍女)
原作の『美味しんぼ』を読まれた方なら、お気づきだと思うが三國連太郎は原作の海原雄山に扮装を合わせていない。
これは、海原雄山のモデルになった陶芸家で、「美食倶楽部」の主催者だった
北大路魯山人(1883~1959)に風貌を寄せたからだ。
原作者の雁屋哲(1941年10月6日生れ)は実写化にあたり三國連太郎を望んでいたので、漫画と映画は別物であるという認識は一致していたと思う。
上映時間に対して膨大な原作からピックアップして凝縮して描く媒体なので、究極的に原作に100%忠実な実写化は不可能だ。
制約の中でどうするかが脚色と言われる作業になる。
脚本は土台に過ぎないので、更に細部を担当するのが俳優である。
その中でもキャラクターを担当する俳優は監督と下の立場ではない。別の役割の仲間だ。
監督は作品全体のトーンを決める役割だが、俳優の演技を指導する立場とは限らない。
俳優出身を除いて監督は他の技術スタッフから出世した人物が圧倒的である。
俳優がカメラに収まる様に配置を決めることは出来ても、演技を指導するのは別の仕事だ。
三國連太郎は過去に役に為に前歯を抜いたと言われるほど演技の鬼と言われた人物だ。
私生活では疎遠だった佐藤浩市は映画の中でその父と向き合ったのである。
次の頁では坂元裕二を取り上げたコラムで少しだけ触れた
ある映画から佐藤浩市の出演した名画三本について語ろう。
今年のカンヌ映画祭のコンペティション部門に出品された『怪物』(監督・是枝裕和)。
それで脚本賞を獲得した坂元裕二が憧れた映画監督
それが相米慎二(1948~2001)である。

(相米慎二 イラストby龍女)
佐藤浩市は、吉村昭原作の短編小説を元にした『魚影の群れ』(1983年10月19日公開)で、小浜房次郎(緒形拳)が一人で育てた娘トキ子(夏目雅子)が連れてきた恋人依田俊一を演じている。
緒形拳(1937~2008)はカンヌ映画祭のパルムドールを受賞した
『楢山節考』(1983)で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞
檀一雄の私小説『火宅の人』(1986。監督は深作欣二)では檀一雄を演じ、2回目の同賞を受賞するなど、出る作品が名作揃いの無双状態だった。
佐藤浩市の相手役の夏目雅子(1957~1985)も20代半ばで俳優として勢いに乗り始めた時期だった。
この二人の間で、ツッパリ上がりの若い喫茶店の店長から愛する女のために漁師になる男を演じた。
若い時の佐藤浩市はリーゼント姿がよく似合う気の良い兄ちゃんであった。
主要キャストである3人の個性がぶつかり合って、相米慎二が得意とする長回し撮影のカメラワークで俳優が生き生きと表現する様は必見なので、是非一度この作品を観て欲しい。

(『魚群の群れ』の1シーンから イラストby龍女)
浅田次郎の原作の壬生義士伝(2003年1月18日公開。監督・滝田洋二郎)は、当初監督は相米慎二の予定であった。
しかしギャンブル好きと酒好きがたたって2001年に6月に肺がんが見つかり9月9日に死去した。
相米慎二は岩手県の盛岡市出身である。
小説の主人公の新選組隊士吉村寛一郎(1839?~1868?)は盛岡藩(現在の岩手県中部・青森県東部から秋田県北東部にかけての地域)の元藩士・嘉村権太郎の偽名である。
新選組の諸士取扱役兼監察方および撃剣師範であった。
これを相米慎二作品では『東京上空いらっしゃいませ』『お引っ越し』に出演した
中井貴一(1961年9月18日生れ)が演じた。
佐藤浩市は、副主人公の3番隊隊長兼撃剣師範斉藤一(1844~1915)を演じた。
ちなみに三國連太郎も相米慎二監督作品では『セーラー服と機関銃』(1981)では太っちょと呼ばれるヤクザの親分、『夏の庭 The Friends』(1994)の主演として、死をみたいと思う少年が出逢う老人を演じている。
吉村寛一郎は妻子のために盛岡藩を脱藩した。
新撰組は年貢ではなく現金で給料が支払われていた。
近代軍隊の元祖とも言える側面がある。
吉村寛一郎は隊士からは「守銭奴」と言われる程給料に固執した。
金のためなら暗殺仕事も厭わなかったのである。
剣客の斉藤一は、最初は反発するものの徐々に吉村寛一郎の生き方に共感していく。
(『壬生義士伝』の1シーンから イラストby龍女)
中井貴一と佐藤浩市はデビューが同じ1980年の同期である。
中井貴一の父親佐田啓二(1926~1964)は戦後の松竹を代表する2枚目スターだった。
京都出身の本名・中井寛一は、早稲田大学政経学部在籍中は親族の知り合いだった松竹の人気俳優佐野周二(1912~1978)の家に下宿していた。
就職先は、佐野周二の縁で松竹撮影所に入社した。
俳優になりたくてと言うより、就職先が映画会社の俳優部門だったのにすぎない。
芸名は、佐野周二の頭文字と最後の文字を貰った。
松竹撮影所近くのレストラン「月ヶ瀬」の看板娘・杉戸益子と結婚した。
このレストランは小津安二郎も木下恵介も贔屓にしていた店だった。
独身の小津安二郎と木下恵介が仲人として佐田啓二と杉戸益子の結婚式を祝った。

(小津安二郎 イラストby龍女)
第2子である長男に「貴一」と名づけたのも、小津安二郎である。
佐田啓二は鎌倉に邸宅を構え、小津安二郎とは近所だった。
父のように慕っていたので、1963年12月12日に小津安二郎が亡くなった時も看取った。
貴一は小津安二郎との記憶はほとんどないようだが、映画は残っているので祖父のような小津と父親には別の形で会える。
中井貴一はテニスが得意でコーチを目指していた。
父の17回忌の法要の際に映画監督の松林宗恵(1920~2009)にスカウトされる。
1981年の東宝の大作戦争映画『連合艦隊』でデビューする。
真珠湾攻撃からミッドウェー海戦までを描き、架空の2家族の視点で描く内容で群像劇の中で中心にいる4人の内の1人を演じたので主役に近い大抜擢だった。
中井貴一は、太平洋戦争の指揮官だった山本五十六(1884~1943)を演じた
小林桂樹(1923~2010)と1983年の『父と子』で父子役で再共演した。
この時はがっぷりよつで演技をすることになった。
撮影中は、「役者がダメだったら就職したい」と言っていた中井貴一と最後に一緒に食事をしている時に小林桂樹はこう言ったそうである。
『俺はさ、貴一ちゃん。お前に役者になってもらいたい。
これからの時代はアウトローが主役をする時代になる。
俺らの頃はサラリーマンが主役だった。サラリーマンがいるから、アウトローも存在できる。
サラリーマンを演じられる人間がいなくなったら、アウトローも存在しない。お前には、王道を歩む俳優になってもらいたい。
アウトローに比べ、正統派と言われる俳優は、評価はされない。でも、お前はそれを貫ける。それを貫いた時、周りのアウトローは輝ける。アウトローの時代に、みんながアウトローしかできなかったら、映画は輝けない。お互いが分をわきまえることで映画の成功はある。お前には、その道を歩んでほしい』
佐藤浩市はいわばアウトローの役で主役を演じ続けてきた俳優である。
中井貴一は対照的だ。初期のテレビドラマの代表作『ふぞろいの林檎たち』(1983)でも真面目な会社員になる二流大学出身の仲手川良雄を演じている。
演技以外にもNHKの『サラメシ』で、働く人の昼食を取り上げた番組のナレーターを務めている。
佐田啓二のデビュー作『不死鳥』の監督は木下恵介である。
つまり、佐藤浩市と中井貴一の父親はどちらも映画デビュー作の監督は木下恵介だったのだ。
しかし、佐田啓二と三國連太郎が仲が良かったとも思えないから、縁とは不思議なものである。
佐藤浩市と中井貴一は何度も共演している。三谷幸喜作品には2人とも何度も出ている。
2世俳優と共通点がありながら、得意とする役柄が対照的なので特に仲が良いのだろう。
「貴一は僕の方が年上で先輩なのに浩市と呼び捨てにするんですよ。アレ? 僕の方が年下で後輩だったかな? と調べてみたらやっぱり僕の方が年上で先輩なんですよ。なんで呼び捨てにするのかな?」
佐藤浩市は、最近ますます三國連太郎に似てきたと言われる。
三國連太郎は1969年に三船敏郎が近藤勇を演じた映画『新選組』で
佐藤浩市は2004年の大河ドラマ『新選組!』で芹沢鴨を演じている。
共通点を探しやすいところもある。
権力を持つ男の小心さを演じると、二人とも際立つ。
特に三國連太郎は自覚していたが、臆病な性格は親子共々共通している。
佐藤浩市の場合は、ものまね芸人・いしいそうたろうが良く真似る『ザ・マジックアワー』の時のナイフを舌なめずりする演技に見られるように強くみせるために見栄を張ってしまう男の滑稽さがよく似合う。

(『ザ・マジックアワー』で演じた村田大樹と妻夫木聡演じる備後登が呆れるところ イラストby龍女)
しかし、これはそれぞれが育った時代の違いもある。
佐藤浩市が演じる役はいい加減でおバカな要素が加わり、日和ってどの人にもいい顔をするというずるさが加わってくる。
つまり臆病が原因で起こす行動に違いが出ているのだ。
佐藤浩市は父・三國連太郎が演じてきた社長会長よりも部長クラスの中間管理職がよく似合う。
もちろん社長を演じた事はある。
TBSの特番『LEADERS リーダーズ』(2014年3月22日・23日)でトヨタ自動車の創業者の豊田喜一郎をモデルにした愛知佐一郎を演じている。
トヨタグループの最初の会社豊田紡織を作った豊田佐吉から数えると2代目である。
三國連太郎が1番長く演じた『釣りバカ日誌』の鈴木一之助は鈴木建設を小さな会社から大きくした初代社長だ。
三國連太郎が差し詰め映画俳優一家の創業者なのである。
もし徳川将軍三代の家光を主人公とするドラマがあったら、佐藤浩市は晩年の秀忠を演じたらハマるのではないだろうか?
その時の家光は寛一郎が演じて欲しい。
さて寛一郎は現在本名の佐藤を除いた芸名で活動中だが、それでふと思いだす人物がいる。
中野英雄を父にもつ2世俳優の仲野大賀(1993年2月7日生れ)である。
デビュー時の2006年は名前だけの「大賀」で活動していたが、2019年に「なかの」の中を仲間と言う意味でにんべんを付けた表記に改名している。
筆者は、寛一郎が俳優活動を続ける中でいつ「さとう」を付けて改名するのか?
そんな日が来るまで見続けられたら良いなと楽しみにしている。
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