町の居酒屋でよく見かける、徳利と通帳をもって立っているあのタヌキ。

彼はいったいどこから来たのか。
名前はあるのか。なぜタヌキなのか・・・など、真剣に考えた読者の方も多いのではないでしょうか。

居酒屋で見かける徳利と通帳をもったタヌキは何者?どうして広ま...の画像はこちら >>


このタヌキの置物は、信楽焼で有名な滋賀県信楽町の名産で、股間に大きな“玉袋”がぶら下がっていることから、外国人にもファンが多いとか。

タヌキの“玉袋”についてはこちらの記事も併せてご覧ください。

タヌキの金玉はなぜ大きいの?誰がいつ最初に言ったんだ問題を解決(実際は小粒)

タヌキのかぶっている「かさ」は「災難を避ける」、手にする「徳利(とっくり)」は「人徳」、「通い帳」は「信用第一」という意味があり、商売繁盛の縁起物として扱われています。

実はこのタヌキのキャラクター、きちんとした作者がいるんです。彼の名前は藤原鉄造。名前は「鉄を造る」ですが、彼が作っていたのは陶器でした。

鉄造は、1876(明治9)年生まれ、58歳から89歳で亡くなるまで、信楽で陶芸をしていました。タヌキの置物が制作されたのは、彼が信楽に移り住んだ直後の1935(昭和10)年頃とされています。

彼がどうして、このような、どことなく憎めない、愛嬌のあるタヌキを作り始めたのか、そのことがわかる確かな記録は残っていませんが、一説によると、彼が幼い頃に見た、タヌキ大ぜいが輪になって座り、腹鼓に興じている姿がきっかけだとか・・・。

その説が本当かどうかはわかりませんが、1951(昭和26)年、昭和天皇が旧信楽町を行幸した際に、旗を持った大小のタヌキが路上に並べられた様子を歌に詠んだことから、その風貌が全国にすっかり広がりました。


このことがきっかけで1955(昭和30)年以降、信楽町でも地域の名産として大量につくられるようになったそうです。こうして今日、全国の居酒屋ですっかりおなじみのキャラクターとなったようですね。

地元で多少知られていたものが、何かの機会で全国的に知られ、それを地域おこしの一環としてブランド化していく…。そうして今では誰もが知っている日本の景観のひとつとして浸透しているわけです。

そう考えると、なんだか初めに信楽のタヌキを全国的な名産にした方たちはすごいですよね!

ポン!

参考:『しがらきやきものむかし話』 冨増純一 1998

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