元来、日本刀は左側に差すので必然的に右腕を使い抜刀します。このようなことから考えると日本刀は右利きの方が有利なものといっても過言ではありません。


しかし、右利きの剣士が多い中で左利きの剣士も存在していました。

今回は左利きにも関わらず、天保の三剣豪に数えられた侍、大石種次(おおいしたねつぐ)の勇姿をご紹介します。

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■生まれた時から剣士としてスパルタ教育

種次は寛政9年(1797)に筑後国(現在の福岡県)に生まれました。大石家は代々剣術師範として活躍していたので種次も5歳のころから祖父の指導を受け、新陰流剣術と大島流槍術を学びました。

しかし、種次は不器用で何をやってもうまくいかないので愚鈍と評されていました。

■敗北の悔しさが糧となる

そんな種次にある転機が訪れます。ある年の正月に行われた御前試合で種次は敗北を喫してしまいます。幼少期から剣術修行をしてきた種次に取ってこの敗北はどんなに悔しかったことでしょう。

そこから種次は人が変わったように修業を始めます。石に紐をつるしてひたすら突き技を研鑽した結果、胴切りや利き腕である左腕を利用した独自の左片手突きを考案しました。

こうして種次は自身で編み出した技と流派を大石神影流と称しました。この時、種次はまだ18歳でした。


■九州から江戸へ名剣士たちと勝負!

文政5年(1822)に大石神影流の免許皆伝を受けた種次はまず豊前中津藩(現在の大分県)の長沼無双右衛門を打ち負かします。その後は九州各地から門下生がこぞってきてしまう事態となります。

天保3年(1832)には藩の命令で江戸へ行きます。

江戸でも7尺(約2m10㎝)の長身と5尺3寸(約160㎝)の長竹刀の種次の強さは凄まじく北辰一刀流の創始者、千葉周作でさえ樽の蓋を竹刀の鍔にした状態で辛うじて引き分けに持ち込ませたくらいです。

18歳にして流派を創始!左利きで剣術の道を究めた幕末の剣士・大石種次を紹介!


千葉周作/Wikipediaより

しかし、そんな種次でも唯一白井亨には敵いませんでした。

翌年にまた江戸に来ると今度は天保の三剣豪の1人である男谷信友(おたにのぶとも)と試合をします。種次はこの時、左肘を曲げて水平に構える得意の左片手突きで信友に2勝1敗で勝利します。

この試合は勝海舟からは「御一新(明治維新)以上の大騒ぎ」と言われます。その後は長竹刀が流行し、天保10年(1839)に再度江戸に来ると種次の名を聞きつけた旗本や諸藩の武士たちが入門する事態となり、江戸の各道場は恐慌を起こしてしまいました。

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勝海舟/Wikipediaより

■最後に

幼少期に大きな挫折を味わうと人間は大きく成長するものです。種次は周りからの評価と御前試合での敗北が大きなバネとなって大石神影流の創設という功績を残せたのだと思います。

種次は負の力をコントロールし、成功に導くことができた人物であると感じます。


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