■読み方は「やまなみ」?それとも「さんなん」?

皆さん、新選組の総長・山南敬助を知っていますか?

「土方歳三や沖田総司なら知っている!」という方は多いかも知れませんが、山南敬助をよく知っている方となると、幕末の歴史や新選組が相当好きで詳しい方でしょう。

「局中法度」という厳しい掟が設けられ、破ったものは容赦なく粛清されるという厳しさで知られる新選組を語る上で、山南は必ず登場する人物です。


なぜ脱走?なぜ切腹?謎が多く残る新選組 総長「山南敬助」の画像はこちら >>
しかしその人物像については、謎が多くあります。

たとえば彼の名前の読み方も「やまなみ」だったのか「さんなん」だったのかすら、正確に分かっていません。

「やまなみ」説が広く知られていますが、本人の署名に「三南」「三男」というものがあることから「さんなん」の可能性もあるとされているのです。

■山南敬助ってどんな人?

山南敬助は1833(天保4)年に、陸奥国仙台藩で誕生しました。

仙台藩を脱藩し江戸に出ると、小野派一刀流の免許皆伝となった後に北辰一刀流の千葉周作に師事し、更に後の新選組局長となる近藤勇の天然理心流・試衛館道場に他流試合を挑み敗れたことを機に、試衛館の門人同様に行動を共にするようになったといわれています。

1863(文久3)年に、試衛館の近藤勇らが将軍警護と尊王攘夷を目的とした浪士組に参加して京都へ入った際、31歳だった山南も一緒に上洛しました。

そして浪士組が「壬生浪士組」と名乗るようになると、土方歳三らと共に副長に就任し、新選組では局長の近藤勇、副長の土方に次ぐ総長の地位に就きます。

■謎の脱走と切腹

このように、剣術の腕が確かだったこともあって順調な出世コースを歩んだように見えた山南でしたが、1864(元治元)年に同じ北辰一刀流の伊東甲子太郎(いとうかしたろう)が山南を上回る参謀という地位で新選組に入隊した頃から、雲行きが怪しくなっていきます。

これを機に、山南は新選組幹部としての立場を失っていくこととなったのです。

1865(元治2)年2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して脱走し、滋賀県大津で追手として差し向けられた沖田総司に追いつかれて連れ戻されました。

なぜ脱走?なぜ切腹?謎が多く残る新選組 総長「山南敬助」


山南脱走の本当の理由は諸説ありますが、本人が決して語ろうとしなかったこともあり、いまだにはっきりしていません。
いずれにせよ、新選組の隊則では「局を脱するをゆるさず」とされ、脱走は切腹でした。

この掟に基づき、山南は沖田の介錯によって切腹しました。
33歳でした。

劇団HumanDustUnionにより2011(平成23)年9月29日~10月2日に上演された新選組をモチーフにした舞台『オンボロ屋根から見る夢は・・・第三部 夢想華』では、山南敬助の脱走~恋人だった馴染みの遊女・明里との別れ、そして切腹までが描かれました。

ここまで謎に包まれた山南を現代によみがえらせるために、演じた役者・脚本家・演出家とも、相当な想像力と力量が試されたことが容易に想像できますね。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ