江戸時代も明暦期になるとこれまで朝と夜だけ食べる1日2食から昼も食べる1日3食の文化が根付いていきました。

これは明暦3年(1657)に起きた明暦の大火がきっかけとされています。
焼け野原となった江戸の復旧工事中の職人たちに昼飯を出したのが、今にまで広まったとされています。

また、白米を食べる習慣や蕎麦が今のように麺状になったのも江戸時代であり、このように江戸時代という時代は庶民が食に関心を持ち始める時代でもあります。

今回はグルメだった江戸の庶民たちの食に関する内容をまとめてみました。

■食べると長生き!初物が江戸庶民の粋な食べ物!!

江戸の庶民にとって初物は「食べると75日長生きできる」と言われているくらい縁起物で大金を払う者も少なくありませんでした。初物で一番有名なのが現代でも根付いている「初鰹」です。

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元来、鰹は勝男と書くことができるので武士たちの間で人気でしたが、いつの間にか庶民にも浸透します。競争心の強い江戸の庶民は初鰹を誰よりも早く食べたいと競い合い、時には1本に数十両の価値をつけることもあったそうです。

鰹の他にもみかんや茄子などの野菜や果物の初物も盛んで初物が出る度に江戸は賑わいを見せていました。この初物による価格高騰に目を付けたのは他でもない農民で誰よりも先に出荷することを工夫していました。

しかし、このような動きを見越したかのように幕府は貞享3年(1688)に初物禁止令を出します。初物を販売できる期間を制限したものですが、庶民たちの初物ブームは止められず大した成果を得られませんでした。

■江戸時代から外食文化はあった

将軍のおひざ元である江戸には農家の次男や跡を継げない独身男性など多くの若い働き手がいました。
多くの男性は料理を作ることを億劫になってしまうので、外食の需要が高まってきました。

その影響か江戸時代の後半になると江戸には蕎麦屋、寿司屋、居酒屋などの食べ物屋が5軒に1軒は立ち並ぶようになりました。

お江戸の庶民は超グルメ!?初物文化や外食文化、さらには9万円のお茶漬まで登場


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お店は様々で庶民が気軽に立ち寄れるところや高級料亭もあり、現代と変わらない文化がこの時代からできあがっていました。

■お値段なんと9万円!?超高価なお茶漬があった!!

江戸の庶民は朝に炊いた白米を夕食でお茶漬にして食べていました。そんな手軽に食べることの出来るお茶漬を浅草にあった「八百善」という料理屋だけはお茶漬に対して強いこだわりを持っていました。

そのこだわりは米とお茶から始まり、どちらも最高級品を使用していました。

さらに注文を受けてから武蔵野の玉川まで水を汲みに行くというので、できあがるまで半日かかっていました。

そのようなこだわりから1杯に1両2分(約9万円)の高値が付けられていたので、話題となっていました。

■グルメすぎてレシピ本も出ていた

江戸の庶民はグルメになりすぎて江戸後期には「百珍もの」と呼ばれるレシピ本が爆売れしました。特に天明2年(1782)に出た「豆腐百珍」は一番売れました。

江戸時代のクックパッド?豆腐についてまとめられた江戸時代の書物「豆腐百珍」とは?

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『豆腐百珍』「絶品」の項/Wikipediaより

豆腐百珍はその名の通り豆腐を使った100種類の豆腐料理を解説した本で当時の国民食である豆腐を起用したことで庶民の目に止まり、他の百珍本も世に出る流行を作りだしました。

しかし、レシピ本とは言うものの、分量が一切記載されていないので料理を作るには調理者の力量が試されていました。


■最後に

食べることは生きていくことで最も大切なことです。そのことは江戸の庶民も同じことを思っていたので色々な食に関する文化が芽生えてきたのかと思います。

こうしてみると今も昔も食に対するこだわりが変わらないことに何だかシンパシーを感じますね。

参考:水戸計著『教科書には載っていない江戸の大誤解』

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