彼女の名は「富子」。
16歳で室町幕府第8代将軍・足利義政の正室となる日野富子(ひのとみこ)その人です。彼女はのちに日本三大悪女に数えられるようになります。日野富子は如何にして日本史を代表する悪女となったのか。その生涯を追っていきましょう。
■由緒正しい日野家
日野富子は康正元年(1455年)8月27日に16歳で8代将軍・義政に嫁ぎました。日野家は元をたどれば藤原家の系譜から来ている由緒正しい家柄で、室町時代に入ると足利将軍家と数度にわたって縁組を組んでいました。
したがって富子が足利将軍家に嫁いだ事も決して不思議な事ではありませんでした。余談ですが、夫の義政の母である重子の出身も同じ日野家で、彼女は富子にとって義母でありながら大叔母という事になります。
■息子の死で側室を追放!
結婚したものの、富子はなかなか子供に恵まれませんでした。その代わり側室たちには子供が。気の強い富子はもう、この時点で嫉妬の火メラメラなのです。
結婚して3年ほど経った長禄3年(1459年)1月9日、ようやく待望の第1子の男の子が生まれましたが、残念なことにその日のうちに亡くなってしまいました。
実は今参局は義政の乳母でありながら、義政が成長してからは愛人でもあったという説もあり、富子は元々今参局に嫉妬していた可能性があります。その思いが、待望の長男の死に際して爆発してしまったのかもしれません。
一方、富子のやり方にプライドを引き裂かれた今参局は流刑地に流される途中で自殺します。しかし富子はそれに飽き足らず、義政の側室4人も追放しました。富子の悪女説は、こんなところから始まったのでした・・・。
(その2に続く)
日野 富子
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