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■応仁の乱の大きな原因は富子の行動!?
室町時代の応仁元年(1467年)から文明9年(1478年)までの約11年という長期間にわたって続いた応仁の乱です。昨今再注目されていますのでご存知の方は多いかと思います。
結果としては、戦場となった京都は全域にわたって壊滅的な被害を受け、見る影もないほどに荒れ果ててしまいました。実はこの応仁の乱が勃発した大きな要因に、富子の野望が絡んでいたのです。
■弟に将軍職を譲る決心をした後に…!
富子の夫、室町幕府第8代将軍・足利義政は29歳になった時、ふと自分の将来を考えました。
「富子との間に全然子供もできないし、俺、そろそろ弟に将軍職譲って隠居したいな…」。
義政の弟はすでに仏門に入っており当初拒否しましたが、義政は「もし俺に今後男の子が生まれても、将軍職は継がせないから!」と起請文まで書いて弟を説得。兄の熱意に動かされ、弟は還俗して足利義視と名を改め、将軍を継ぐ準備に入りました。
■このタイミングで富子男子出産!
ところがどっこいその直後、驚きのバッドタイミングで富子が義政の子供を妊娠出産したのです。しかもなんと待望の男の子!可愛い息子を前にして、富子にむくむくと野望が芽生えます。
「この子を絶対に将軍にしたい…!」
まあ1人の母親として当然と言えば当然の思いでしょうが、還俗までして将軍を継ぐ準備をしていた弟・義視にしてみれば
「ファッ!?今更何言っちゃってんの!?」
というのが正直な感想。
■やがて応仁の乱へ
義視は武将・細川勝元を後ろ盾に、富子と対立姿勢を見せます。一方の富子は生まれたての可愛い息子、義尚を将軍にするために山名宗全という武将に急接近し、バックアップを得ました。
こうして足利義視を次期将軍に推す細川勝元派VS足利義尚を次期将軍に推す山名宗全派というバチバチの対立構図が完成。この対立は日本全国にまで広がり、やがては応仁の乱につながっていきます。
Wikipediaより
こういうわけで、応仁の乱が起こった大きな原因は富子の恐ろしい野望にあったという解釈ができるのです。まあ結果的には義尚が9代将軍になったので、富子の野望は叶ったというわけです。
くわばらくわばら。
(その3に続く)
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