古くから東海道は元より、海運を通じて伊豆や房総などとも交流が盛んだったため、意外な地方とも言葉の共通性が見られることも間々あります。
確かにそういう意味では「神奈川県でしか使われていない方言」というものはごく少ないのかも知れません。それでも暮らしの中に根づいている神奈川方言は決して少なくないため、以下に地元民がよく使う・聞くものをいくつかピックアップしてみましょう。
「共通語だと思ってた言葉も、わりかし方言だったりするじゃんね」「ねぇ」
アッチャコッチャ(あちこち。骨折り的なニュアンスでの用例多し)他にもサミィ(寒い)、ハエェ(早い)、ヘェル(入る)などの訛りが見られますが、意思疎通に特段の支障もなく、色んな方と会話できているつもりです。
オンダス(追い出す)
オンデル(追われるようにノコノコ出て来る、というニュアンス)
カックラス(はたく。引っ掻き喰らわす)
カッポジル(ほじる。掻き穿る)
カッポル(放置する。掻き放る)
ゲーモネェ(下らない。芸もねぇ)
ショウガンネェ(仕方がない。ガ、にアクセント)
ブッツヮル(怠けている。デンと打ち座るニュアンス)
ヤツ(谷。主に地名に用いる)
ヤト(谷戸。谷間の主に湿地帯)
ヨコハイリ(割り込み。横入り)
ワリカシ(意外と。割と)
しかし、広い世の中にはこんなささやかな違いが許せない人たちもあったもので、今回はかつて鎌倉で行われた「言葉狩り(方言追放運動)」の歴史について紹介したいと思います。
■新旧住民のカルチャーギャップ
鎌倉は幕府が滅亡した後も東国の要衝として重視されてきましたが、やがて江戸時代に入ると将軍様(江戸)の喉元に刃を突きつけるような軍事≒叛乱拠点があってはたまらないとばかりに放置され、半農半漁の寒村として寂れていきました。

幕末期の鎌倉。現代ほどの賑わいは見られない。Wikipediaより。
そんな鎌倉が再び脚光を浴びるようになったのは明治時代以降、都心からのアクセスの良さと風光明媚で過ごしやすい自然環境が東京都民の別荘地として注目されたためです。
この頃から、鎌倉の土着民と別荘民との確執(カルチャーギャップ)が生まれたようで、大東亜戦争末期(昭和十九1944~二十1945年ごろ)には度重なる空襲から逃れてきた疎開者が、帰る家が焼けたこともあってそのまま定住することも多かったそうです。
そして昭和三十年代に入ると「昭和の鎌倉攻め」とも称された大規模な宅地乱開発が強行され、土着民を包囲していくかのように山野が切り崩されて大量の移住者が流入。それまで明治~敗戦期とは比べものにならないほど言葉や文化の軋轢を生みだしました。

とりわけ古くから漁業が盛んな腰越(こしげぇ。こしごえ)地区は、多くの危険が伴う海上での漁労生活に根づいた短く早口で語調の強い言葉が色濃く、それを「野蛮」と忌み嫌った移住民たちによる方言「改善」運動が始まったのでした。
■鎌倉のことばは「悪いことば」?
昭和三十三1958年の春、腰越小学校では全児童を対象とした話し言葉の調査を実施。土着の言葉を「悪いことば」、いわゆる標準語を「よいことば・正しいことば」として授業や学校生活の中で徹底的に指導しました。
更には「子供の言葉は両親や大人たちの影響を強く受ける」からと各家庭にテープレコーダーを持ち込んで「正しいことば」を繰り返し聞かせ、また家族の会話を録音させて、その中の「悪いことば」について学校から「改善指導」が行われたとも言われます。

しかし、全児童とは言っても鎌倉に土着している「悪いことば」の子と、外部から移住して来た「よいことば」の子は最初から判っている訳で、恐らく土着民の子の中から「反抗的な子」や、あるいはなかなか方言の抜けない「努力が必要な子」が徹底的にマークされていたであろうことは想像に難くありません。
先生や学校当局から快く思われていない子が「いじめ」のターゲットにされるリスクも高く、現代だったら人権侵害で訴えられてもおかしくないようなことが、平然と行われた「時代」を感じます。
■燃えろよ燃えろ……「ネ・サ・ヨ祭り」が全国に紹介
そんな方言追放運動の極めつけが「ネ・サ・ヨ祭り」。日常会話の「そんで(それで)ネェ」「そんでサァ」「そんでヨォ」といった語尾(ネ・サ・ヨ言葉)を、鎌倉における土着方言の象徴として槍玉に挙げます。
そしてその「ネ・サ・ヨ言葉」を児童一人々々に短冊に書かせて竹などにくくりつけたものを、校庭の中央でドンド焼き(左義長)のように燃やしたと言いますが、きっと中世ヨーロッパの魔女狩りもかくやとばかりの光景だったことでしょう。

ネ・サ・ヨ祭りの様子(イメージ)
これが「ネ・サ・ヨ運動」として全国的に紹介され、全国各地の「ことばの問題(要するに方言追放運動)」に取り組む100校ばかりと姉妹校となったそうですが、この21世紀、令和の御代になってもまだ「悪いことば」を短冊に書いて燃やしている学校はあるのでしょうか。
■エピローグ
「きみのことのなかに きみがいる令和の現在、腰越小学校で「ネ・サ・ヨ祭り」が実施されている様子はありませんが、朝日新聞神奈川版によると、少なくとも昭和四十1965年12月に「悪いことば追放週間」が行われた記事があります。
あなたのことばのなかに あなたがいる」
※腰越小学校「ことばの碑」碑文
紙面によれば校庭の片隅に建立された「ことばの碑(昭和三十八1963年、運動5周年記念)」を前に恒例の「ネ・サ・ヨ祭り」が行われ、腰越のさらなる発展のため「悪いことばを使う必要がないよう正しく美しい心の持ち主になる」ことを、児童・教師・父兄ともども誓い合ったそうです。
何をもって「発展」とするのかは人それぞれ価値観の分かれるところですが、土地の歴史に根ざした文化や言葉を躍起になって否定し、自分たちのスタンダードを強制する姿勢や精神が、果たして「正しく、美しい」と言えるものでしょうか。

多様性を受容し、尊重し合える社会の実現はいまだ道半ばの感ですが、かつて鎌倉の地にこんな歴史があったことも、参考までに顧みて頂けたらと思います。
※参考文献: 清田昌広『かまくら今昔抄60話』冬花社、2007年4月20日 第1刷
日野資純・斉藤義七郎『神奈川方言辞典』神奈川県教育委員会、1965年
木村彦三郎編『鎌倉のことば』鎌倉市教育委員会、1989年3月
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