江戸時代の遊女は、平均寿命が22歳程度だったといわれています。性病や過酷な環境での生活が、遊女たちの寿命を奪っていたのでしょう。


そんな遊女たちは、亡くなればお寺に投げ込まれていたというのです。

■遊女が投げ込こまれていた「浄閑寺」

吉原遊郭は最初、江戸市中にありましたが、1656年・明暦2年に移転を命じられて、翌年に現在の浅草日本堤に移転することになりました。

前の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」と区別しています。

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この新吉原の近くにあった浄閑寺が、投げ込まれていたというお寺です。浄閑寺が創建されたのは1655年、明暦元年のこと。吉原が移転してくる約2年前ですね。
将軍は4代目の徳川家綱なので、江戸幕府も落ち着いてきたころでしょう。

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新吉原江戸町 松葉屋瀬や満 いろか ゆかり

この浄閑寺に遊女が投げ込まれるようになったのは、1855年・安政2年に起こった「安政江戸地震」からです。地震はマグニチュード7クラス、死者数が1万人ほどではないかといわれています。

江戸時代、遊女の最期は寺に投げ込まれていた?苦界に身を落とした遊女たちが眠る浄閑寺とは


安政の大地震絵図(wikipediaより)

この地震で吉原の遊女たちも大勢亡くなり、浄閑寺に投げ込まれるようになりました。ただし、言葉通りに投げ込まれていたわけではなく、地震の混乱と重なって、投げ込まれるようにして遺体が運ばれてきたのでしょう。

その後、身寄りのない遊女が亡くなれば浄閑寺で埋葬されるようになります。
それで浄閑寺は「投げ込み寺」と呼ばれるように。

■苦界に身を落とした遊女を供養する

浄閑寺には、1743年・寛保3年から1926年・大正15年までの遊女の名を記した過去帳が現存するそうです。そして浄閑寺に葬られた遊郭関係者(遊女、遊女の子供や遺手婆)の数は、推定2万5千にもなるとか。

そんな遊女たちを供養する「新吉原総霊塔」が、浄閑寺にはあります。

江戸時代、遊女の最期は寺に投げ込まれていた?苦界に身を落とした遊女たちが眠る浄閑寺とは


浄閑寺(wikipediaより)

もともとあった「供養塚」を改修したのは、昭和4年のこと。供養塚は、安政江戸地震で亡くなった500人にもなる遊女を供養していました。


それを「新吉原総霊塔」として、浄閑寺に眠る2万5千にも及ぶ魂を慰めているのです。

「新吉原総霊塔」の壁面には、「生きては苦界、死しては浄閑寺」という文字が刻まれています。この言葉は、川柳作家・花又花酔が読んだ句です。花又花酔は、浄閑寺を訪れては遊女たちの哀しい人生を偲んでいたのでしょうか。

江戸時代、遊女の最期は寺に投げ込まれていた?苦界に身を落とした遊女たちが眠る浄閑寺とは


吉原の遊女・明治時代(wikipediaより)

昭和に入り、売春防止法が定められて吉原の歴史は終わりました。しかし、現在でも吉原はソープランドが並ぶ風俗街となっています。
浄閑寺で眠っている遊女たちは、時代が巡っても変わらない街並みをどのように見つめているのでしょうね。

参考サイト:浄閑寺

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