)。そのあと、二代・頼家(よりいえ)、三代・実朝(さねとも)と続くことができる貴方は歴史マニア!?
「その後の将軍は?」と聞かれてすぐに名前をいえる貴方は相当の歴史通といっても良いかもしれません。
実朝の後も鎌倉幕府は続き、しかも6人の将軍がいたのです。三代・実朝までと違って、彼らの印象が薄いのは、彼らが源氏の直系ではない「お飾り」の存在だったからです。
1219(承久元)年、甥の公暁(頼家の子)に実朝が殺された後、四代将軍に迎えられたのは頼経(よりつね)でした。
鎌倉四代将軍・藤原(九条)頼経 (wikipediaより)
頼経は頼朝の姪の孫なので、厳密には頼朝の五親等に当たるわけですが、執権として幕府の実権を握っていた北条氏からすれば将軍職に就くものは頼朝の血をひくものでなければならないのは当然のこと。そうでなければ幕府がまとまらないからです。
迎えられた頼経は当時、数えで二歳の子どもにすぎず、正式に将軍となったのも七歳のときでした。彼が成長していく中で自我が芽生え、政治権力を手中ににしたい欲求が高まってくると北条氏にとっては邪魔以外の何物でもなくなってきます。おこで頼経は1244(寛元二)年、将軍の座を子どもの頼嗣に譲ることを強いられるのでした。
四代・頼経以降はこちら。
五代・藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)
六代・宗尊親王(むねたかしんのう)
七代・惟康親王(これやすしんのう)
八代・久明親王(ひさあきらしんのう)
九代・守邦親王(もりくにしんのう)
五代・藤原頼嗣以降は、全員が幼少の頃に将軍職に就き、成長期になると北条氏の意向などで京都に強制的に送還されるという運命をたどることになります。
ちなみに鎌倉幕府最後の将軍、九代・守邦親王は1308(延慶元)年、八歳のときに将軍となり、1333(元弘三)年の鎌倉幕府滅亡に伴って将軍職を辞した後は出家し、その後すぐにこの世を去りました。
結局、実朝あとの六人の将軍たちは、北条氏の手の上で踊らされるだけの「傀儡(かいらい)将軍」でした。
参考
- 高橋慎一朗『北条時頼』(2013 吉川弘文館)
- 安田 元久『鎌倉将軍執権列』(1974 秋田書店)
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