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貞女は二夫にまみえず!陰謀から御家を守り抜いた戦国時代の女城主・清心尼(一)
貞女は二夫にまみえず!陰謀から御家を守り抜いた戦国時代の女城主・清心尼(二)
貞女は二夫にまみえず!陰謀から御家を守り抜いた戦国時代の女城主・清心尼(三)
時は江戸時代初期、陸奥国の大名・南部宗家による御家乗っ取りを阻止し続けた根城(ねじょう。現:青森県八戸市根城)の女城主・清心尼(せいしんに)は、婿養子・八戸弥六郎直義(はちのへ やろくろうただよし)に家督を譲りました。
しかし、直義は南部宗家の筆頭家老として盛岡に赴任して不在、相変わらず所領経営に奔走する清心尼たちに対して寛永四1627年、遠野への転封命令が下されます。
お国替えには、莫大な財政負担が伴う。「南部弥六郎入部の図」文政七1824年。
莫大な財政負担に加えて、遠野では旧主・阿曽沼(あそぬま)一族をはじめとする土着勢力の抵抗が続いており、また南方から仙台藩主の伊達政宗が、虎視眈々と領土拡大の隙を狙っています。
「父祖伝来の土地を離れて、そんな所へ行かされるのか!」
これまで数々の仕打ちもあって家臣たちの不満は頂点に達し、今や南部宗家に反旗を翻さんばかりに憤っていました。
■「同じ謀叛を起こすなら……」
しかし、清心尼は家臣たちを宥めて言います。
「……皆の気持ちは、わたくしとてよう判る。さりながら、婿殿(直義)は南部宗家の筆頭家老として愛(めご。清心尼の次女で直義の正室)らと共に盛岡にある……いわば人質じゃ。ここでいっときの怒りに任せて兵を挙げれば、婿殿らの生命は無論のこと、我ら八戸氏が代々にわたって尽くしてきた忠義まで無に帰する……それよりは、たとい如何なる困難であろうと耐え忍び、遠野の地を見事に治めて宗家を見返してやろうではありませぬか」
清心尼の覚悟を前に、家臣たちは怒りのやり場を失いつつありました。しかし、未だくすぶる顔色を見た清心尼は、こうも加えました。

ほくそ笑む清心尼(イメージ)。
「それに……同じ謀叛するのであれば、この北の果てで独り拳を奮うよりも、伊達や阿曽沼一族と手を取り合(お)うた方が、事も優位に進もうぞ。『我らの意思一つで、遠野の地は伊達の手に落ちる』と思えば、南部宗家も我らを粗末にできまい」
表向きは従いながら、いざとなればより有利な条件で謀叛を起こしてやろう。そう思えばこそ、遠野への転封を前向きに受け入れることが出来ます。
(尼御台様は、なかなか話の解るお方じゃ……!)
多くの家臣たちがそう思い、内心ニヤリとしたことでしょう。
かくして清心尼たちは父祖伝来の根城を離れ、南へおよそ三十三里(約130km)の遠野へと赴任したのでした。
■その後・遠野にて
さて、遠野に赴任した清心尼たちは、戦乱で荒れ果てていた横田城(よこたじょう。護摩堂山にあったため護摩堂城とも)を鍋倉山に移転、鍋倉城(なべくらじょう)と改称します。

南部神社(鍋倉城址)。

鍋倉城の御城印。左下に清心尼の姿が見える(現在品切れ)。
清心尼たちは人民の慰撫と戦災復興に努め、次第に受け入れられていきますが、南部宗家への不満よりも遠野領民に対する愛着がまさったらしく、伊達からの誘いにも乗らず、阿曽沼一族とも和解して、謀叛を起こすことなく遠野の地を治め続けました。
そして正保元1644年6月、鍋倉城で直義夫婦やその子・弥六郎(後の義長)らに看取られながら生涯の幕を閉じました。
清心尼の墓は鍋倉城より北西、猿ヶ石川のほとりにあって、今も遠野の人々に慕われながら、その暮らしを見守っています。
【完】
参考文献
- 巌手県教育会上閉伊郡部会 編『上閉伊郡志』巌手県教育会上閉伊郡部会、大正二1913年
- 青森県史編纂中世部会『青森県史 資料編 中世1 南部氏関係資料』青森県、平成十六2004年3月31日
- 八戸市史編纂委員会 編『新編八戸市史 通史編2(近世)』八戸市、2013年3月
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